(5) 長満書状の“メインディッシュ”は、上洛計画に向けての打ち合わせ
ふたたび書状の内容に戻りましょう。
ともあれ塩川長満は、間近に迫った「(第二次) 足利義昭上洛計画」に関して、九条稙通と織田信長の間を取り持つ立場にあったとみられ、それこそが稙通訪問の主目的であったのでしょう。
「八月二十七日付」書状の主要な部分は、その内容が箇条書きでつづられています。
以下、一項目ごとに星印☆でご紹介してまいりましょう。
☆すでに織田信長が「近江・佐和山」にまで一旦出向いており、もはや上洛の見通しが明るいこと。
これについては「信長公記」という史料に“信長が八月七日~十三日まで一時的に佐和山城(浅井家領)に滞在し、南近江を支配する「六角承禎」に協力を要請したが、断られたので作戦を考えた”という記事があるのに符合しています。なおその記述から、実際の信長は、八月十四日頃には一旦岐阜に戻っていたものとみられます。
上:佐和山城遠望
[コラム 11]
*長満の「長」の字は、「信長」からもらったのではなかった!?ヘジャンプ
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
[コラム 9]
*八月十四日に信長が添状で宛てた「左京大夫殿」は誰??に へジャンプ
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
☆九条稙通の拠点「和泉国」の扱いについての質問と、義昭方への交渉に向けての助言。
長満は和泉国のことを「御国」と呼んでおり、「根来寺が引き受けるのでしょうか?」と漠然とした質問をぶつけています。
紀伊国・北部から和泉国に領地を進出させていた根来寺とは、九条家が和泉国に日根野荘を領有していた頃からその代官職を請け負ったり、また稙通の孫の家である松浦(まつら)家と敵対したり、複雑で微妙な“腐れ縁”がありましたが、この時点では互いに「反・三好三人衆方」として、同じく紀伊国の畠山家なども含めて同盟関係にありました。
なお、長満には父、国満に反目して天文二十一年(1552)に塩川家を出奔して、根来衆に身を投じた「全蔵」(右京進頼国・宗覚・のち運想軒、母は近江・種村家出身)なる兄がいました(高代寺日記)。
彼は現在、根来寺の連判衆として現役でしたので、長満には根来寺との連絡ルートもあったことが推測され、それらも含めてこの「質問」となったのでしょうか。
また、長満による「申すまでもないことですが、まず近江にお使者を出されて上洛成功後のご希望を仰せなさっておく事が肝要かと存じます」というアドバイスがとても印象的です。
近年の研究によれば、この永禄十一年の二月~四月にかけて、九条稙通の後見の下で三好義継と松浦光は、和泉国に畠山家の血を引く守護「細川刑部大輔」を迎えており、新たな和泉支配の政治体制を構築しつつあったようです。長満のアドバイスは、きたる「足利義昭政権」下におけるその認可、などに関連したものでしょうか。
☆稙通側の恩賞希望地(?)とも思われる「若江表」(今の東大阪市)に関する長満からの質問。
稙通の孫、三好義継は、実際このあとの上洛戦で、足利義昭方として大活躍します。その結果、「若江城」を拠点とする「河内半国」が義継に与えられているのです。ということは、すでにこの時に、その交渉をしていた可能性があります。さらに若江村は、九条稙通の猶子でもあった「本願寺・顕如」と関係が深かったともいわれています。
なお、三好義継は、上洛戦直後の十月には、いったん河内・飯盛城に入城しますが(多聞院日記)、翌永禄十二年末には、平野部にある若江城に移っていたとみられています。因みに若江城は後年、彼の死所となる場所でもあります。
上:三好義継が上洛戦の直後に入城した、河内・飯盛城の「御体塚」(第5郭)
(飯盛城と若江の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)
見つかった建物は火災で焼けていました。また、三好家の氏神である「新羅社」もここにあったらしい証拠があることから、義継が若江城に移る際にこれを焼いたとは考えにくく、飯盛城は義継が入城した時にはすでに主要建物が焼かれていて、そのまま本格的な修復をせず、ほどなく若江城に移転したのではないでしょうか?
上:河内・若江城跡。現在は市街地に埋没していますが、東大阪市によるたび重なる発掘調査によって、堀や部分的な石垣、建物の基礎、堀の中に崩れ落ちた壁や瓦が見つかっています。なお遺構や遺物は、のちの織田時代である可能性もあります。
また、この「若江表」との関連は不明ですが、塩川長満は書状で、「近日阿波や淡路から三好勢が到来する噂があるものの、この情勢では下手に動けない」と世相の緊迫感をあらわにしています。
この情勢とは、すでに義昭側への同盟を拒否した、六角承禎と三好三人衆の動き(「言継卿記」八月十七日条、細川両家記)を指しているように思われます。
☆地元「摂津国」における伊丹忠親、及び塩川長満自身による周辺工作などの状況報告。
この項目では、摂津で伊丹忠親や長満が水面下において、ひそかに味方をつのって上洛戦の準備をすすめている記述がみられます。(なお、書状の紙が、袋綴じにされる際に、少なくとも二行分が切り取られていて、読めなくなっています。)
長満は「中々はかどりませんが、「能勢郡の諸侍」にも参加を申し付けて戦う覚悟です」と上洛戦に向けた抱負を述べています。能勢家や余野家、吉川家などの領主たちにも声を掛けたのでしょうが、長満が告白しているように、「親・三好」色のつよい能勢郡においては説得が困難だったのではないでしょうか。
そして最後に「どうかこれをお伝えください」と九条家の侍「石井兵部大輔」に宛てて書状は締めくくられています。
くり返しますが、この書状の日付は「八月二十七日」です。これは織田信長が上洛戦を開始すべく岐阜を出立するわずか十日前にあたります。
[コラム 3]
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
*今回「足利様の花押」を使わなかった長満
さて、塩川長満の「花押」(サイン)といえば、これまでは「武家様」(足利様)の意匠だけが知られていました(猪名川町・田中家文書、同・平尾家文書、有馬・善福寺文書)。
今回の二通の書状に用いられていた花押は、初めて確認されたもので、これら武家様とは全く異なる意匠のものでした。
グラフィカルな新様式で、(三好宗渭や真木島昭光の花押に見られるような)「左を向いた鳥」を模したものでしょうか。なお長満は「足利様」の花押の方は、この12年後においても用いています(有馬・善福寺文書)。
今回長満が「武家様」を用いなかったひとつの理由は、相手が九条家という「公家」であるからでしょう。
しかしこのほかにも状況的に大きな理由があったと思われます。
塩川国満や長満の花押は、単に「足利様」であるのみならず、それぞれが「足利義晴」、「義輝」の花押を模したかのように似ています。
そしてこれまで書いてきたように、「足利義晴」は近衛家と縁組をして近江から上洛し天文三年(1534)十一月には九条稙通を京都から追い出して足かけ19年も落剝させた張本人でした。
加えて、「足利義輝」もまた、稙通の孫、三好義継が殺害に及んだ相手でした。
つまり、この両・将軍を思い起こさせる意匠は、九条稙通にとってタブーであったはずです。
よって、塩川長満が稙通側に宛てた書状において「足利様」の花押を避けたことは、極めて理にかなった配慮であった、といえるのです。