コラム0~4

 

[コラム 0]

*「氏・姓」と「名字」は本来、別のもの

 現在では、民法(みんぽう)においても、「(し」)」((せい))と「名字」(みょうじ、苗字)はまったく「同じもの」として扱われています。

 これは「歴史学」の世界においてもほぼ同様で、藤原家、豊臣家、徳川氏、土佐・一条氏、羽柴氏、近江・佐々木六角氏、阿波・三好氏、摂津・池田氏、塩川氏、といったといった用例が普通に「慣習的に」使われています。

 この場合の「氏」は、「そこそこ以上の支配(しはい)階級(かいきゅう)であり、父系(ふけい)の一族集団」といった意味合いで用いられているようです。

 しかしながら、江戸時代以前は、「(うじ)」と「名字(みょうじ)」は全く別の区分に属しました。

 ですから、厳密(げんみつ)にいうと、これら歴史学における、特に「氏」の使われ方は「まちがい」とは言わないまでも、やはり「誤解(ごかい)を生む慣習」であるとは思います。少なくとも、一般の方々や、歴史に興味を持ち始めた若い世代や子供たちにとっては。

 ただし、公家(くげ)を対象とした研究においては、氏と名字の区分が比較的(ひかくてき)厳密(げんみつ)で、「摂関家(せっかんけ)」に区分される「九条家」や「近衛家(このえけ)」は、名字であり、彼らの(ぞく)する「(うじ)(姓)」が「藤原(ふじわら)」であることは、あまりにも当然のこととして扱われています。ですから、当ページの「はじめに」において述べた 

「九条稙通は、かつて関白・藤原(ふじわら)()長者(のちょうじゃ)(つと)めたこともある、藤原(ふじわら)氏摂関家の公卿です 。」

 という文章には、彼の「(うじ)」と「名字(みょうじ(家)」が別々の区分であることを込めています。

  ここから、上で述べた用例なども、

 ☆「源氏」を称した徳川家、

☆「平氏」から「藤原氏」に変えて関白(かんぱく)となったが、あとから「豊臣氏」を創設した羽柴家(はしばけ)の秀吉

☆「(宇多)源氏」の末裔(まつえい)である、佐々木・六角家

☆「(多田)源氏」の末裔を称した摂津・塩川惣領家

などといった表現が「より正確」ではありますが、ここまで書くと煩雑(はんざつ)ではあります。

 

 ともあれ、この「一般向け解説編」においては、冒頭(ぼうとう)の「藤原氏」と「九条家」の関係の説明に矛盾(むじゅん)しないように、あえて「塩川氏」、「伊丹氏」といった歴史学上の呼称(こしょう)を避け、「塩川家」、「伊丹家」といった表現を用いました。

 おそらく違和感(いわかん)を抱かれることとは思いますが、なにとぞご理解(りかい)いただければ(さいわ)いです。

 

(並行して作成中の「論考編」においては、「塩川氏」、「伊丹氏」を用いています。)

 

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[コラム 1]

* 本当は当時出家(しゅっけ)していた九条稙通(くじょうたねみち)

 

 なおこの永禄十一年、九条稙通は“数え(かぞえ)”で六十二歳でした。稙通はこれより13年前の(こう)()元年(がんねん)(1555)に出家(しゅっけ)していたので、この時点では「(ぎょう)(くう)」もしくは「()(くう)」と呼ぶ方がより正確のようです。

 また稙通は古典(こてん)文芸(ぶんげい)の世界においては「玖」(きゅう?)と署名(しょめい)したり「玖山」と通称されたりします。ちなみに塩川長満は書状の中で一度だけ「 上様(うえさま)」を用いています。高位の人物を名前で呼ぶことは礼を失するからであり、手前に一文字分「空白」を入れているのも(↑確認(かくにん)してみてください)、文章における、貴人に対する敬意の表現です。

 ともあれ、このページでは「九条稙通(くじょうたねみち)」という呼び方に統一して話をすすめてまいります。

 

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 [コラム 2]

*「紙背(しはい)文書(もんじょ)」とは?

 今でも「折り込みチラシ」などの裏側(うらがわ)を「メモ用紙」代わりに使うことがあるでしょう。昔は「紙」そのものが高価(こうか)でかさばるので、しばしば古い書類(しょるい)や手紙の(うら)(白紙)側を(おもて)にして袋綴(ふくろと)じに組んで日記が書かれたりしました。つまり九条稙通は、塩川長満ほかの人々から出された「古い手紙」などの裏側に自分の日記を書いていたわけです。“表側”となった「稙通(たねみち)(こう)別記(べっき)」は、天正十三年(1585)の、豊臣(とよとみ)(当時は藤原(ふじわら)()(ひで)(よし)関白(かんぱく)就任(しゅうにん)(さい)の日記の抜粋(ばっすい)ですので、長満の書状は「17年前の古い手紙の(うら)に」という関係になります。

 なお、天正十三年は塩川長満の死の前年にあたり、当時の塩川家は秀吉によって相当弱体化(じゃくたいか)させられていたと思われます(後述(こうじゅつ))。九条稙通にとって塩川長満は「すでに過去の人」だったのでしょうか?

 そして令和3年、この日記の袋綴(ふくろと)じの糸がほどかれて、長満の手紙の全体が読めるようになった、というわけなのでした。

 

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 [コラム 3]

* 書状の宛名(あてな)は九条家の侍?

 なお、九条稙通はかつて関白(かんぱく)藤原(ふじわら)()長者(ちょうじゃ)をつとめ、最終的に(じゅ)一位(いちい)という(くらい)(さず)かったという“高位の人物”でした。そして「(しょ)(さつ)(れい)」という当時の手紙のマナーにおいて、塩川長満の身分では、こうした貴人(きじん)に直接手紙を出す事は出来ないのです。ですから、わざわざ宛名(あてな)を九条家に仕える(さむらい)石井兵部(いしいひょうぶ)大輔(だゆう)」や「星野(ほしの)備前(びぜん)入道(にゅうどう)」とし、「この手紙の内容を上様にお伝えください」と取り次いで披露(ひろう)してもらう形式になっています。

 

 余談ながら、この九条稙通に仕えた「石井兵部(いしいひょうぶ)大輔(だゆう)」の石井家は、京の()(さむらい)で、九条家の本貫地「東九条荘」の下司(げす・管理人)を代々(つと)めていた家でした。おそらく「稙通(たねみち)公記(こうき)」に登場する石井(そう)領家(りょうけ)の「石井民部丞(いしいみんぶのじょう)満利(みつとし)(光利)」の後継者ではないかと推測されます。その「石井民部丞」という人物も、やはり“戦国人(せんごくびと)”というか、調べてみると波乱万丈(はらんばんじょう)な経歴の持ち主のようです。彼についても、のちに「論考編」でお伝えしたく思っています。 

 

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 [コラム 4]

 *豊能町一帯を支配していた戦国時代の領主たち

 ))居城(きょじょう)を構えていた領主で、キリシタンでもあった「()野山(のやま)(しろ)(のかみ)(クロン殿)」もまた、この能勢家の一族であったとみられています。この山城守の娘が後に高山(たかやま)右近(うこん)の妻となる、洗礼名「ジュスタ」と呼ばれる女性です。

 

余野本城跡

 上:余野家の拠点城郭とみられる余野本城跡(画像はクリックで拡大。別ウィンドウで開きます。)

 

 一方、町内の吉川(よしかわ)地区は、やはり「多田源氏の末裔(まつえい)」を称する家で、「多田院(ただいん)御家人(のごけにん)」の一員として13世紀の文書(もんじょ)には登場していた「吉川家(よしかわけ)」の支配下にあったとみられます。

 戦国時代の吉川家については、冒頭で述べた「高代寺(こうだいじ)日記(にっき)」以外にあまり記録がないのですが、三好家とは比較的(ひかくてき)良好(りょうこう)な関係にあったようです。しかし、のちの(てん)正元年(しょうがんねん)(1573)には織田信長の命を受けた塩川長満によって(ほろ)ぼされたようです。

 天正四年十月には、塩川長満の兄で、紀伊(きの)(くに)根来(ねごろ)(しゅう)の「大賀(だいが)(つか)連判(れんぱん)(しゅう)」(一種の民間(みんかん)軍事(ぐんじ)会社(かいしゃ))であった運想(うんそう)(けん)(頼国、全蔵)に吉川の地が与えられていますが(高代寺日記)、これはあるいは(だい)官職(かんしょく)であったとみられます。

 彼は、塩川家と根来寺を結ぶキーパーソンでもあり、この解説編には何度か登場しています。

 吉川家の拠点(きょてん)城郭(じょうかく)は、現在の「吉川井戸城跡」とみられますが、この城跡は(しょく)豊期(ほうき)(信長~秀吉の時代)に大改修(だいかいしゅう)を受けたのちに、昭和期の道路工事により、その9割方が失われてしまいました。

 2003年に行われた「吉川井戸城跡」の発掘調査報告書についてはこちらをご参照ください。(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4899

 

 また、町内高山地区(旧(しま)下郡(しもぐん))を出自とする高山(たかやま)飛騨(ひだ)(のかみ)は、(まつ)永久(ながひさ)(ひで)の家臣として、永禄三年(1560)大和・沢城の城代でしたが、足利義昭の上洛時は和田(わだ)(これ)(まさ)と共に義昭に随従(ずいじゅう)していたので、「反・三好三人衆方」でした。

 飛騨守は畿内(きない)におけるキリシタン領主の草分けの一人であり、「ダリヨ」の洗礼名としても知られ、嫡男の右近のみならず、上述した余野山城守や和田惟政をもキリシタンに改宗させました。

 また、飛騨守が大和へ移ったあとも、宗教面から本貫地である高山村周辺に、大きな影響力を持っていたことが判ります。

 

 

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