[コラム 0]
*「氏・姓」と「名字」は本来、別のもの
現在では、民法においても、「氏」(姓)と「名字」(みょうじ、苗字)はまったく「同じもの」として扱われています。
これは「歴史学」の世界においてもほぼ同様で、藤原家、豊臣家、徳川氏、土佐・一条氏、羽柴氏、近江・佐々木六角氏、阿波・三好氏、摂津・池田氏、塩川氏、といったといった用例が普通に「慣習的に」使われています。
この場合の「氏」は、「そこそこ以上の支配階級であり、父系の一族集団」といった意味合いで用いられているようです。
しかしながら、江戸時代以前は、「氏」と「名字」は全く別の区分に属しました。
ですから、厳密にいうと、これら歴史学における、特に「氏」の使われ方は「まちがい」とは言わないまでも、やはり「誤解を生む慣習」であるとは思います。少なくとも、一般の方々や、歴史に興味を持ち始めた若い世代や子供たちにとっては。
ただし、公家を対象とした研究においては、氏と名字の区分が比較的厳密で、「摂関家」に区分される「九条家」や「近衛家」は、名字であり、彼らの属する「氏(姓)」が「藤原」であることは、あまりにも当然のこととして扱われています。ですから、当ページの「はじめに」において述べた
「九条稙通は、かつて関白・藤原氏長者を務めたこともある、藤原氏摂関家の公卿です 。」
という文章には、彼の「氏」と「名字(家)」が別々の区分であることを込めています。
ここから、上で述べた用例なども、
☆「源氏」を称した徳川家、
☆「平氏」から「藤原氏」に変えて関白となったが、あとから「豊臣氏」を創設した羽柴家の秀吉
☆「(宇多)源氏」の末裔である、佐々木・六角家
☆「(多田)源氏」の末裔を称した摂津・塩川惣領家
などといった表現が「より正確」ではありますが、ここまで書くと煩雑ではあります。
ともあれ、この「一般向け解説編」においては、冒頭の「藤原氏」と「九条家」の関係の説明に矛盾しないように、あえて「塩川氏」、「伊丹氏」といった歴史学上の呼称を避け、「塩川家」、「伊丹家」といった表現を用いました。
おそらく違和感を抱かれることとは思いますが、なにとぞご理解いただければ幸いです。
(並行して作成中の「論考編」においては、「塩川氏」、「伊丹氏」を用いています。)
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[コラム 1]
* 本当は当時出家していた九条稙通
なおこの永禄十一年、九条稙通は“数え”で六十二歳でした。稙通はこれより13年前の弘治元年(1555)に出家していたので、この時点では「行空」もしくは「恵空」と呼ぶ方がより正確のようです。
また稙通は古典・文芸の世界においては「玖」(きゅう?)と署名したり「玖山」と通称されたりします。ちなみに塩川長満は書状の中で一度だけ「 上様」を用いています。高位の人物を名前で呼ぶことは礼を失するからであり、手前に一文字分「空白」を入れているのも(↑確認してみてください)、文章における、貴人に対する敬意の表現です。
ともあれ、このページでは「九条稙通」という呼び方に統一して話をすすめてまいります。
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[コラム 2]
*「紙背文書」とは?
今でも「折り込みチラシ」などの裏側を「メモ用紙」代わりに使うことがあるでしょう。昔は「紙」そのものが高価でかさばるので、しばしば古い書類や手紙の裏(白紙)側を表にして袋綴じに組んで日記が書かれたりしました。つまり九条稙通は、塩川長満ほかの人々から出された「古い手紙」などの裏側に自分の日記を書いていたわけです。“表側”となった「稙通公別記」は、天正十三年(1585)の、豊臣(当時は藤原氏)秀吉の関白就任の際の日記の抜粋ですので、長満の書状は「17年前の古い手紙の裏に」という関係になります。
なお、天正十三年は塩川長満の死の前年にあたり、当時の塩川家は秀吉によって相当弱体化させられていたと思われます(後述)。九条稙通にとって塩川長満は「すでに過去の人」だったのでしょうか?
そして令和3年、この日記の袋綴じの糸がほどかれて、長満の手紙の全体が読めるようになった、というわけなのでした。
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[コラム 3]
* 書状の宛名は九条家の侍?
なお、九条稙通はかつて関白や藤原氏長者をつとめ、最終的に従一位という位を授かったという“高位の人物”でした。そして「書札礼」という当時の手紙のマナーにおいて、塩川長満の身分では、こうした貴人に直接手紙を出す事は出来ないのです。ですから、わざわざ宛名を九条家に仕える侍「石井兵部大輔」や「星野備前入道」とし、「この手紙の内容を上様にお伝えください」と取り次いで披露してもらう形式になっています。
余談ながら、この九条稙通に仕えた「石井兵部大輔」の石井家は、京の地侍で、九条家の本貫地「東九条荘」の下司(げす・管理人)を代々務めていた家でした。おそらく「稙通公記」に登場する石井惣領家の「石井民部丞満利(光利)」の後継者ではないかと推測されます。その「石井民部丞」という人物も、やはり“戦国人”というか、調べてみると波乱万丈な経歴の持ち主のようです。彼についても、のちに「論考編」でお伝えしたく思っています。
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[コラム 4]
*豊能町一帯を支配していた戦国時代の領主たち
余野に居城を構えていた領主で、キリシタンでもあった「余野山城守(クロン殿)」もまた、この能勢家の一族であったとみられています。この山城守の娘が後に高山右近の妻となる、洗礼名「ジュスタ」と呼ばれる女性です。
上:余野家の拠点城郭とみられる余野本城跡(画像はクリックで拡大。別ウィンドウで開きます。)
一方、町内の吉川地区は、やはり「多田源氏の末裔」を称する家で、「多田院御家人」の一員として13世紀の文書には登場していた「吉川家」の支配下にあったとみられます。
戦国時代の吉川家については、冒頭で述べた「高代寺日記」以外にあまり記録がないのですが、三好家とは比較的良好な関係にあったようです。しかし、のちの天正元年(1573)には織田信長の命を受けた塩川長満によって滅ぼされたようです。
天正四年十月には、塩川長満の兄で、紀伊国・根来衆の「大賀塚連判衆」(一種の民間軍事会社)であった運想軒(頼国、全蔵)に吉川の地が与えられていますが(高代寺日記)、これはあるいは代官職であったとみられます。
彼は、塩川家と根来寺を結ぶキーパーソンでもあり、この解説編には何度か登場しています。
吉川家の拠点城郭は、現在の「吉川井戸城跡」とみられますが、この城跡は織豊期(信長~秀吉の時代)に大改修を受けたのちに、昭和期の道路工事により、その9割方が失われてしまいました。
2003年に行われた「吉川井戸城跡」の発掘調査報告書についてはこちらをご参照ください。(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4899)
また、町内高山地区(旧島下郡)を出自とする高山飛騨守は、松永久秀の家臣として、永禄三年(1560)大和・沢城の城代でしたが、足利義昭の上洛時は和田惟政と共に義昭に随従していたので、「反・三好三人衆方」でした。
飛騨守は畿内におけるキリシタン領主の草分けの一人であり、「ダリヨ」の洗礼名としても知られ、嫡男の右近のみならず、上述した余野山城守や和田惟政をもキリシタンに改宗させました。
また、飛騨守が大和へ移ったあとも、宗教面から本貫地である高山村周辺に、大きな影響力を持っていたことが判ります。
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