コラム7~10

 

 [コラム 7]

*塩川長満の本妻(ほんさい)は、「一条房家の孫」で「足利義輝の娘」だった!?

 「高代寺日記」によれば、塩川長満はこの永禄十一年正月に三十一歳で結婚しており、妻(本妻(ほんさい)か)をなんと「足利義輝の娘」としています。さらに彼女の母「辰子(たつこ)」が、義輝の母(近衛・(けい)寿院(じゅいん))の侍女であり、辰子を土佐(とさ)一条家(いちじょうけ)の初代当主、一条房家(いちじょうふさいえ)の娘(落胤(らくいん))としています。(同記の「天正六年」項の次の「源長満」の名目、及び「天正十四年」項において)

 実際「高代寺日記」(下巻)は、土佐を含む「一条家」(摂関家)の事を非常に意識(いしき)して編纂(へんさん)されています。後述(こうじゅつ)しますが、この縁が影響したのか、少なくとも長満の娘(母が伊丹(いたみ)(ただ)(ちか)の妹・(いけ)田元(だもと)(すけ)未亡人)が後に「一条(いちじょう)内基(うちもと)政所(まんどころ)」(慈光院)になるのは、良質な史料の裏付けがあって、疑いようのない史実です。

 この義輝の娘は、父が殺害された永禄八年五月十九日(永禄の変)当時、十三歳であり、救出されて塩川国満に(かくま)われてその養女(ようじょ)となったとあります。なお、足利義輝の遺骨(いこつ)は七月五日には多田院に分骨(ぶんこつ)されているので(多田神社文書)、彼女はその時、至近(しきん)距離(きょり)に居たことになります。

 

 さて、これらが史実であったとすれば、今回長満の居城に来訪した九条稙通ですが、(土佐)一条家の血を引く彼女からして見れば、「父の仇(三好義継)の祖父」にあたる人物でもあります。くわえて母、辰子が仕えていた(近衛)慶寿院もまた、永禄の変で自害しているのです。

 しかしながら、彼女が義輝の娘であった話は、どうやら秘密であったようですから、以下は想像ながら、長満夫人はこの珍しい訪問客(ほうもんきゃく)に対し、さりげなく挨拶(あいさつ)しただけなのかもしれません。

 「高代寺日記」にはまた、長満が死に臨んで、彼女が父の名前をも(とな)えられるように、自らの戒号(かいごう)を、「義輝」(光源院(こうげんいん))から三つの文字を貰って「輝山源光(きざんげんこう)大居士(だいこじ)」としたエピソードも記されています。

 また、義輝の死から15年後の天正八年の長満の花押(足利(あしかが)(よう))が有馬・善福寺に残されていますが、やはり(当然かもしれませんが)(よし)(てる)花押(かおう)に似ています。

 

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[コラム 8]

*塩川家にとってはヒーローだった!?「摂津(せっつ)晴門(はるかど)

 以下も「高代寺日記」のみに記されていることですが、上記の「永禄の変」における、義輝の娘の救出劇(きゅうしゅつげき)

 「~十三才ナリシヲ 摂津ノ国(つのくに)(いと)(まる)カ父 助十郎(すけじゅうろう) コレヲ(だき)テ多田ヘ退(のき) (つい)()(はく)(国満)ノ養育(よういく)トナリテ~」と記されています。

 問題なのは、この「摂津ノ国絲丸(つのくにのいとまる)カ(が)父 助十郎」なる人物です。

 「助十郎(すけじゅうろう)」という通称は他の記録で確認出来ていませんが、永禄の変で討ち死にした「糸丸(糸千代丸)の父」とあるので、この人物は「摂津晴門」に特定されます。

 

 一般の歴史ファンにはほぼ無名であった「摂津晴門」という人物は、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」における片岡鶴太郎さんの(かい)(えん)もあって、「悪役」として一気に日本史の世界で“メジャーデビュー”してしまいました。「高代寺日記」はおそらく彼をヒーローとして記録していた世界で唯一の史料でしょう。

 幕府の「評定(ひょうじょう)(しゅう)」などを務める家(中原氏の摂津家)に生まれた晴門は、足利義輝の乳人(めのと)春日局(かすがのつぼね)」の義兄(ぎきょうだい)妹でもあり、義輝と不和(ふわ)だった幕府・政所(まんどころ)の「伊勢(いせ)(さだ)(たか)」が没落した後、義輝によって「政所・執事(しつじ)頭人(とうにん))」という要職(ようしょく)に、異例(いれい)ともいえる大抜擢(だいばってきで就任しました。また晴門自身は上で述べたように、嫡子(ちゃくし)「糸丸」を「永禄の変」で亡くしているのです。

 ドラマにおける「悪役」とはちょっと違い、「足利義輝の忠臣」としての「晴門像」が()かび上がってくるのではないでしょうか。

 そして、この「摂津晴門」や「春日局」(陽春院(ようしゅんいん))を研究された高梨真行、菅原正子、木下昌規、木下聡 などの方々の研究によると、晴門や春日局もまた、「塩川長満」や後述する「伊丹忠親」らと同様、三好三人衆の統治下(とうちか)で、ひそかに足利義昭擁立(ようりつ)画策(かくさく)していたことがうかがえるようです。

 つまり塩川国満、長満からすれば、まさに「同志」であったという感じです。

 ただし、「永禄の変」直後の晴門の足取りはやはり不明であるらしく(!)、よって「高代寺日記」の「(よし)(てる)(むすめ)救出(きゅうしゅつ)記事(きじ)」は決してあり得ない話ではなく、状況的には「史実」である可能性が十分残されていると思われます。

 なお、今回の永禄十一年八月の塩川長満の書状が(したた)められた頃、摂津晴門もまた、足利義昭に付き従って、すでに越前(えちぜん)一乗(いちじょう)(だに)から美濃(みの)岐阜(ぎふ)へ移っていたことになります。

 

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[コラム 9]

*八月十四日に信長が添状(そえじょう)で宛てた「左京(さきょう)大夫(のたゆう)殿(どの)」は誰??

 この「信長が六角承(ろっかくじょう)(てい)への調略(ちょうりゃく)をあきらめて岐阜に帰った」まさに「八月十四日」付の「左京(さきょう)大夫(のたゆう)殿(どの)」宛の織田信長の書状というものが存在します(丹波市教育委員会所蔵文書)。

 これは、その内容から「足利義昭自身が発給(はっきゅう)した上洛戦に忠節(ちゅうせつ)を求めた御内書(ごないしょ)」に信長が添えた「添状(そえじょう)」にあたるもの、と判断されています。

 さて、この宛名「左京大夫殿」がいったい誰なのか?については

☆「六角承禎」(佐々木左京大夫)とする解釈(村井祐樹「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究」・「六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す」)と

☆「三好左京大夫義継」とする解釈(天野忠幸「戦国遺文 三好氏編 二」一四一九)・「松永久秀と下剋上」・「織田信長の古文書」)とが、真っ向から分かれています。なお、柴裕之氏(足利義昭の「天下再興」と織田信長)や久野雅司氏(足利義昭と織田信長)も天野説を支持されています。

 

 これがもし、「六角承禎宛」であるとすれば、この添状は「最後(さいご)通告(つうこく)」や「フェイント」(書状ではうやうやしく「ご返事をお待ちしております」などと書きながら、裏では本格的な戦争準備をはじめる。「信長公記」の「御行」(おてだて)がそれか?)的な意味合いとなりますし、一方の「三好義継宛」であれば、「義昭方への新規参入を公認する」史料と解釈されましょう。

 ともあれ、これら両見解にとって、この十三日後に書かれた当・塩川長満書状の記述は、重要な参考資料になることは間違いありません。

(令和6年4月11日追記)

 織田信長家臣団研究会の井口友治氏のご教示(『天下布武』28号・2016)によれば、そもそもこの信長の添状が現在、丹波市教育委員会の所蔵となっているのは、書状が旧氷上町教育委員会から移管されたからであり、同所に所在した柏原藩・織田家の家臣「津田如嶽家」に伝わったものであったからでした。そしてこの津田如嶽(高令)こそは、まさに六角承禎(左京大夫)の四男「高一」(佐々木梅心斎)の末裔だったのです(柏原織田家臣系譜)。よって、この書状の宛先「左京大夫」とは、もはや「六角承禎であった」と断言してよいでしょう。 

 

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 [コラム 10]

*「荒木村重の乱」の功績と、織田信忠、池田元助との婚姻関係

 この上洛戦から5年後に、信長が将軍・足利義昭を追放して以降、塩川長満は摂津国衆の中で、最も信長に忠実な存在となります。

 例えば、天正六年(1578)年、摂津国を統括(とうかつ)していた荒木村(あらきむら)(しげ)が毛利・本願寺方に寝返った際、国内の荒木(むら)(つぐ)や荒木重堅(しげかた)はもちろんのこと、高山(たかやま)右近(うこん)中川(なかがわ)(きよ)(ひで)、安倍二右衛門、能勢郡の能勢一族など、すべての国衆が村重に従う中、唯一(ゆいいつ)塩川長満だけが織田方に残留(ざんりゅう)孤立(こりつ)しました。

 

織田信長朱印状

上:泰巖歴史美術館所蔵「塩川伯耆守宛織田信長朱印状」(天正六年と思われる「十一月三日」付)

 朱印状は令和2年(2020)に初めて公開されました。塩川長満が当初から荒木村重の謀反に加担していなかったことは、これまでも断片的な史料から推定されてはいましたが、本状の出現によってようやく実証されるに至りました。加えて織田家と塩川家の「取次」を「菅屋九右衛門」が担当していた事も「高代寺日記」等が記していた通りでした。なお「十一月三日」という日付は、まさに織田信長が摂津に向けて安土を出陣した当日です。

 しかしながら、こうした長満の功績もまた、恣意的に偏った史料の引用による自治体史においては、「塩川国満(ママ)は他の摂津衆が織田方降伏したのちに帰順した」という、誤った歴史叙述がなされてきたのです。

 ともあれ、この行為が認められ、こののち築かれた「池田城跡の信長御座所(ござしょ)」に駐屯したのは、諸侯(しょこう)の中で唯一「塩川長満」だけだったのです(信長公記・十二月十一日条)。また、この功績から長満の娘(いわゆる”寿々(すず)姫”)が織田信忠に嫁いだという話も、決して荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではありません。(荒木(あらき)略記(りゃくき)続群書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)版 織田系図ほか)

 天正七年(1579)三月十四日に、塩川家家老「塩川勘十郎」の案内で、信長自身による塩川領内への鷹狩(たかがり)がおこなわれ(信長公記)、森乱(いわゆる(もり)(らん)(まる))の史料上の初見(しょけん)が、四月十八日(同)にこの婚礼(こんれい)祝儀(しゅうぎ)を塩川家の城に届けるもの(長満本人は池田在陣なので)だったとも推定されています。

 また織田信忠は、四月二十八日の晩に、塩川の城に一泊している可能性があり、まさにこの日に塩川長満が、「古池田」本陣から、信忠の「加茂(かも)(きし)(のとりで)」に配置(はいち)転換(てんかん)となっています(信長公記、中山寺文書)。

 翌二十九日に信忠は「古池田」で突然「岐阜への帰還」を命じられ、(信長公記、お湯殿上日記)そのまま四ヶ月近くもの間、戦陣から遠ざかります。そして翌年に「三法師」(秀信)が生まれているのです。(続群書類従版 織田系図)

 また、彼女が三法師こと「織田秀信」の母親((とく)寿院(じゅいん))であったかどうかについては

☆上記の三法師の誕生年。(続群書類従版(ぞくぐんしょるいじゅうはん) 織田系図、なおこの系図は岐阜・法華寺(ほっけじ)と同寺であった名古屋・法華寺に伝わったものを原本とする。)

☆「羽柴秀吉が織田信忠未亡人を自分の(めかけ)とした」(「オルガンティーノ書簡(しょかん)」から引用したフロイス「日本史」)とあり、当時の秀吉が近江・坂本城主だったこと。また坂本には、三法師が飼い殺し同然にされていたこと(日本史、イエズス会日本年報)。徳寿院と秀信の墓や若干の文書、遺品が坂本の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)に伝わっていること(つまり「坂本時代に寺と縁が出来た」ことへの類推(るいすい)材料(ざいりょう))。

☆慶長五年の織田秀信家臣に「塩川孫作(しおかわまごさく)」が居たこと(のち加賀・前田家臣。ただし出自は()()に伝わらず不明)。

小瀬(おぜ)()(あん)が「太閤記」において、三法師の母を、織田信忠の「妻」(妾ではなく)と認識していたこと。

 など複数の状況証拠は存在する一方、これと矛盾するような史料もあって、いまだに決定的な証拠には出会っておりません。

 なお、彼女を織田信忠の「側室(そくしつ)」というのは間違いで、当時は「側室」という言葉の用例自体がありませんでした(福田千鶴氏の研究による)。

 また彼女(信忠夫人)の母親は、滅亡した伊丹忠親の妹でした。(荒木略記)

 そして、荒木村重が滅亡したのち、有岡の城には織田信長の家臣、(いけ)田元(だもと)(すけ)(つね)(おき)の嫡男)が入ります。

 元助もまた、塩川長満の娘(のち一条内基政所・慈光院)を妻に迎えますが、彼女の母親もまた伊丹忠親の妹でした。

 ようするに織田信忠夫人の妹です。

 

 つまり、織田信忠(勘九郎)と池田元助(庄九郎)は、“塩川姉妹”を通じた「(あい)婿(むこ)」でもあったわけです。また、この姉妹は不思議なことに、ともに「岐阜城主夫人」となり、ともに「夫と義理の父(織田信長と池田恒興)」を同時に失っているのです。

 

 なお池田元助は、町の名前を「有岡」からふたたび「伊丹」に戻しています。いろんな意味で、「伊丹の復活」なのでした。元助のこの行為がなければ、伊丹市は現在「兵庫県有岡市」であり、「伊丹空港」は「有岡空港」であったことでしょう。

 

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