解説1

(4)解説編

 

4―0)解説編(かいせつへん)を書くにあたって

 さて、今回の書状について「一般向(いっぱんむ)けの、なるべく(わか)りやすい解説(かいせつ)(ぶん)」が必要だと思い、作成したのがこの「解説編(かいせつへん)」です。

 しかしながら、まず二人の中心人物である九条稙通(くじょうたねみち)塩川(しおかわ)長満(ながみつ)概略(がいりゃく)から書き始めてみると、二人共(ふたりとも)複雑)な人生を歩んでいて、依然(いぜん)不明な部分があったり、あるいはこれまでの歴史(れきし)書物(しょもつ)においては、間違(まちが)った解釈(かいしゃく)が書かれていたりしました。特に塩川長満にいたっては、地元の歴史の本に、ほぼ名前すら登場していないのです。

 ですから短い解説(かいせつ)(ぶん)ですと、

「どうして九条稙通という公家(くげ)が、塩川長満という武将(ぶしょう)居城(きょじょう)(おとず)れる必要があったのか?」

「この二人がいったい何を考えて、この書状が作られたのか?」

「そもそもこの二人、いったい何者?」

 をうまく説明出来ないことがわかりました。

 「(わか)りやすい短い解説文」ですと、どうしてもごまかすだけになってしまい、そのような質問にいっさい答えられなくなるのです。

 

 加えて、書状の内容は「足利(あしかが)(よし)(あき)(ほう)じた織田(おだ)信長(のぶなが)上洛戦(じょうらくせん)前夜(ぜんや)」という、いわば「日本(にほん)史上(しじょう)大事件(だいじけん)」にかかわるものです。当然(とうぜん)ながら、国内の(ほか)情勢(じょうせい)と「無縁(むえん)」ではありえません。

 

 さらにもうひとつ、冒頭(ぼうとう)でも述べたように、これまでの歴史(れきし)研究(けんきゅう)無視(むし)され続けてきた「高代寺(こうだいじ)日記(にっき)下巻(げかん))」という膨大(ぼうだい)史料(しりょう)に、この九条家と塩川家や、足利(あしかが)将軍家(しょうぐんけ)にまつわる、多くの謎を()記述(きじゅつ)が残されていました。

 ただ、「高代寺日記」は、目立つ(めだつ)部分(ぶぶん)明らか(あきらか)間違(まちが)いもあって、そのせいか、歴史(れきし)研究者(けんきゅうしゃ)には必要(ひつよう)以上(いじょう)敬遠(けいえん)されている史料(しりょう)でもあるのです。

 ですから、「高代寺日記」から記事を引用する場合は、その記事がはたして信頼(しんらい)にあたいするものか、なるべく、ことこまかに解説(かいせつ)しておく必要がありました。

 

 こうした事情(じじょう)(かさ)なって、(とう)ページの最後(さいご)にあげたような、多くの「解説コラム」などを追加(ついか)したりしました。

 その結果(けっか)、この「解説編(かいせつへん)」は、「わかりやすい」どころか、とてもゴツゴツした複雑(ふくざつ)なものになったかもしれません。実はこれでも、まだまだ説明(せつめい)不足(ぶそく)であることは(いな)めないのですが。

 

 このようなわけで、この解説編(かいせつへん)は、「説明(せつめい)」というよりも、現在(げんざい)解明(かいめい)されているらしい情報(じょうほう)の「レポート」、「ノート」のようなもの、と理解(りかい)してもらえば(さいわ)いです。

 あと(およ)ばずながら、読者(どくしゃ)の方々の脳裏(のうり)に、なるだけ九条稙通や塩川長満たちの「生々(なまなま)しいドキュメンタリー映像(えいぞう)」を再生していただけることを一応はめざしています。

 

 (なお、書状に関する「論考編(ろんこうへん)」は、これと並行して現在(げんざい)作成中(さくせいちゅう)です。)

 

 

(4-1)とても複雑(ふくざつ)情勢(じょうせい)と、()わってゆく人々(ひとびと)立場(たちば)

(1)三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)支配下(しはいか)

 この長満の書状が書かれた(えい)(ろく)十一年(1568)の夏は、まさに戦国時代が()()まった時期でした。

 くり返しますが、歴史的には足利(あしかが)(よし)(あき)将軍(しょうぐん)候補(こうほ)に打ち立てた織田(おだ)信長(のぶなが)が、いよいよ上洛戦(じょうらくせん)開始(かいし)しようとする、まさに直前にあたります。

 当時、京都を中心とする「天下(てんか)」を(おさ)めていたのは、今は()三好(みよし)長慶(ながよし)の後を()いだ「三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)」(三好(みよし)長逸(ながやす)三好宗渭(みよしそうい)(いわ)(なり)友通(ともみち))という、三好家(みよしけ)重臣(じゅうしん)たちでした。

 この三好家が統括(とうかつ)する政権(せいけん)はこの3年前、しばしば彼らと敵対(てきたい)反目(はんもく)していた前将軍(ぜんしょうぐん)足利(あしかが)(よし)(てる)を京都で殺害(さつがい)しており、この年二月には新たな将軍・足利(よし)(ひで)摂津(せっつ)(とん)()高槻市(たかつきし))で就任(しゅうにん)させたばかりでした。

 

(2)能勢郡(のせぐん)はおおむね、三好家とは良好(りょうこう)な関係だった(令和6年4月8日追記訂正)

 この当時、現在の大阪府豊能町を含む能勢郡の東郷地域は、主に三好家と友好関係にあった国人~国衆である能勢家や野間家などが支配していました。

 能勢家は、平安時代の「多田源氏の末裔」を称する流れの家で、13世紀には将軍家から田尻荘や野間(共に能勢町)に加え、阿波国の篠原荘の地頭職(じとうしき)を安堵されていたという、まさに「鎌倉殿の御家人」でした。

 室町時代から戦国時代中ごろにかけては、摂津の「国人」として「守護」の細川家の配下にあるのみならず、「奉公衆」という足利将軍直属の家臣を輩出する一族でもありました。野間家も13世紀には「多田院御家人」(後述します)の一員であった一族です。

 一方、能勢郡の西郷地域は16世紀には「西郷諸侍中」という地侍層の連合体が統括していたようです。

 西郷諸侍は天文十四年(1545)に守護「細川晴元」に叛乱し、晴元側の「塩川国満」(長満の父)らの焼き討ちを受けて一時幕府に領地を没収されていました。

 ともあれこれら能勢郡の支配層は、三好長慶が天文十八年(1549)に将軍・足利義晴・義輝親子や細川晴元らを京都から追い出してみずからが政治中枢を担った時から、ずっと三好家と同盟を結んでその地位を回復していました。

 ですので、能勢郡()という地域はおおむね「()三好()(」であったと言えるでしょう。

[コラム 4]

*豊能町一帯を支配していた戦国時代の領主たちへジャンプ

 (*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)

 

(3)塩川家は(はん)三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)

 一方、今回の書状二通を書いた塩川(しおかわ)長満(ながみつ)塩川家(しおかわけ)は、能勢家とは違い、父・塩川(しおかわ)(くに)(みつ)の代に前政権の将軍・足利(あしかが)(よし)(はる)(よし)(てる) 親子(おやこ)、及び細川(ほそかわ)晴元(はるもと)陣営(じんえい)(がわ)(ぞく)していたので、彼ら(かれら)(ほろ)ぼした三好(みよし)長慶(ながよし)とはしばしば(たたか)って、最終的(さいしゅうてき)降伏(こうふく)した家だったのでした。

 つまり塩川家の支配する川辺郡(かわべぐん)北部(兵庫県(ひょうごけん)川西市(かわにしし)北部(ほくぶ)猪名川町(いながわちょう))は、「水面下(すいめんか)では (はん)三好方(みよしかた)」であった、と言えるでしょう。

 

[コラム 5]

*戦国時代に多田院御家人と呼ぶのは時代錯誤?へジャンプ

  (*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)

 

 

(4)三好方 → 反・三好三人衆方へと(てん)じた九条稙(くじょうたね)(みち)

近衛家(このえけ)と将軍・足利(よし)(はる)連携(れんけい)によって没落させられた九条稙通

 さて、長満から書状を受け取った側である九条稙通(くじょうたねみち)立場(たちば)は、かつて研究者(けんきゅうしゃ)が「戦国(せんごく)公家(くげ)(いち)典型(てんけい)」と評価(ひょうか)したこともあるほど、波乱万丈(はらんばんじょう)複雑(ふくざつ)なものでした。以下(いか)説明(せつめい)が長くなりますが、どうか我慢(がまん)して少しずつお読みいただければ、と思います。

 

 九条家)(「九條家」とも書きます)は「摂関家(せっかんけ)」もしくは「()摂家(せっけ)」(九条(くじょう)近衛(このえ)二条(にじょう)鷹司(たかつかさ)一条(いちじょう))とも呼ばれる藤原(ふじわら)()嫡流(ちゃくりゅう)の家のひとつで、藤原(ふじわら)()の「(うじの)長者(ちょうじゃ)」や、天皇(てんのう)補佐(ほさ)する「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」という官職(かんしょく)に付くことが出来る、いわば最高(さいこう)家格(かかく)である公家(くげ)のひとつです。

 

[コラム 0]

*「氏・姓」と「名字(みょうじ)」は本来、別のものへジャンプ

  (*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)

 しかしながら、戦国(せんごく)乱世(らんせい)の時代は、たとえ身分の高い京都の公家(くげ)といえども、その地位(ちい)所領(しょりょう)確保(かくほ)するために、有力な将軍や大名(だいみょう)への接近(せっきん)(はか)られ、それに失敗してしまうと、没落(ぼつらく)の運命が待っていました。

 

 実際)九条稙通(くじょうたねみち)はかつて、彼の宿敵(しゅくてき)である近衛家(このえけ)摂関家(せっかんけ)のひとつ)から(つま)(むか)えた将軍・足利(あしかが)(よし)(はる)や、細川(ほそかわ)晴元(はるもと)らの政権(せいけん)によって、天文(てんぶん)三年(1534)に京都を追われてしまいました。

 このとき稙通は、所領(しょりょう)関白(かんぱく)地位(ちい)さえも失って「牢人(ろうにん)」となり、保護者(ほごしゃ)(もと)めつつ、足掛(あしか)け19年にもわたって諸国(しょこく)放浪(ほうろう)したのです。

 “(みやこ)優雅(ゆうが)貴族(きぞく)”どころではありませんでした。

 そしてここでは、九条稙通(くじょうたねみち)が「(はん)足利(あしかが)(よし)(はる)」であったことをおさえておきたい、とおもいます。

 

三好(みよし)長慶(ながよし)足利(あしかが)(よし)(はる)政権(せいけん)駆逐(くちく)する

 しかしこののち、稙通にとって絶好(ぜっこう)機会(きかい)到来(とうらい)します。

 上でも少し述べたように、細川(ほそかわ)晴元(はるもと)に仕えていた阿波(あわ)徳島県(とくしまけん)出身(しゅっしん)三好(みよし)長慶(ながよし)(1522-1564)が足利義晴・義輝((よし)(ふじ)親子(おやこ)、細川晴元らに反乱(はんらん)を起こし、天文(てんぶん)十八年(1549)には彼らや近衛稙家(このえたねいえ)までも京都から近江(おうみ)(のくに)(滋賀県)に()い出してしまったのです。

 こうして三好(みよし)長慶(ながよし)は、将軍(しょうぐん)不在(ふざい)の下で、自ら(みずから)が政治を統括(とうかつ)する立場となりました。

 なお、足利義晴はこの直後に近江の()(のう)大津市(おおつし))で亡くなっています。

 (塩川長満の父、(くに)(みつ)もまた、足利義晴・細川晴元側でしたので、この時以来「反・三好方」としてしばしばゲリラ戦を行いますが、(えい)(ろく)元年(がんねん)(1558)頃には三好長慶と和睦(わぼく)しています。ようするに「塩川家は水面下では反・三好方だった」と述べたゆえんです。)

 

稙通(たねみち)、三好家に接近(せっきん)し、九条家を復興(ふっこう)させる

 宿敵・足利(あしかが)(よし)(はる)近衛稙(このえたね)(いえ)が去った今、九条稙通は当然ながら三好家に接近し、その保護(ほご)を受けて縁組(えんぐみ)までしました。近年の研究によると、三好長慶の弟、十河一存(そごう・かずまさ)に、九条稙通)の養女を)嫁がせたようです。

 これは近衛家が足利家と縁組(えんぐみ)したのとまったく同じパターンです。

 阿波の国人から急成長をとげてしまった三好家側としても、「九条家」という最高の家格の)家と血縁を結んでおくことは、政治的にも不可欠でした。両者の利害は一致したのです。

 三好長慶はこののち、永禄七年(1564)に河内(かわち)飯盛(いいもり)城で密か(ひそか)に亡くなってしまいます。

 すでに長慶の実子(じっし)(よし)(おき))も亡くなっていたので、結局、九条稙通の(まご)(十河一存と、稙通の養女(ようじょ)の子)である三好(みよし)(よし)(つぐ)(よし)(しげ))が長慶のあとを()ぎました。

 ようするに、九条稙通は早くも、「三好家の当主(とうしゅ)の祖父」という立場になってしまっていたのでした。

 (なお、義継はこの翌年に足利義晴の子、将軍・足利(あしかが)(よし)(てる)やその母、(けい)寿院(じゅいん)(近衛家)を殺害(さつがい)することとなります。この出来事((えい)(ろく)(へん))については、(なぞ)も多く、現在もさまざまな解釈(かいしゃく)がなされていますが、見方(みかた)によっては「三好義継が、祖父(稙通)の恨み(うらみ)()らした」といった一面もあるのかもしれません。)

 

*三好家で内乱(ないらん)がおこり、当主の三好(みよし)(よし)(つぐ)が「(はん)三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)」に(てん)じてしまった!

 ところが、将軍・足利義輝が殺害された後、三好家では内輪(うちわ)もめや仲違い(なかたがい)が発生し、ここから話がさらにややこしくなっていきます。

 

 まず重臣であった(まつ)永久(ながひさ)(ひで)が他の三好家の重臣たち(のちの三人(さんにん)(しゅう))と不和(ふわ)となって離反(りはん)、さらに(おどろ)くことに、今度は三好家の当主であった三好義継自身もまた、永禄十年(1567)に三好三人衆と決裂(けつれつ)、なんと松永久秀と同盟(どうめい)してしまったのです。

 

 こうして「三好三人衆 VS 松永久秀・三好義継」の戦いが奈良の市中で行われ、失火(しっか)によって「東大寺(とうだいじ)大仏(だいぶつ)殿(でん)」が焼け落(やけお)ちてしまったのは有名な話です。

 

*弟の松浦光(まつらひかる)もすでに「反・三好三人衆」だった

 ちなみに稙通のもう一人の孫(十河一存の子)で、三好義継の弟だった和泉(いずみ)岸和田(きしわだ)の城主、松浦孫八郎光(まつらまごはちろうひかる)もまた、すでに松永久秀方に付いていました。

 この松浦(まつら)家は、和泉(いずみ)(のくに)守護(しゅご)(しょく)を代行する守護代(しゅごだい)という立場でしたが、守護(細川家)の没落によって、下剋上(げこくじょう)()たしてみずからが「領主(りょうしゅ)」となり、三好家と九条家の血筋(ちすじ)をひく(ひかる)(孫八郎)が当主(とうしゅ)となっていたというわけです。

 ということは、九条稙通は、今やその二人の孫が「反・三好三人衆方」だった、という立場です。

 なお九条稙通は、しばしば(さかい)(まち)(たい)(ざい)したことで知られる人物なのですが、もはやこうなっては三好三人衆の(いき)のかかった京都や堺に滞在することすら危険(きけん)であったことでしょう。

 

 ですから、九条稙通が塩川長満を訪問したこの(えい)(ろく)末期(まっき)には、松浦家(まつらけ)拠点(きょてん)であった岸和田城に住んでいたと推定されます。

近世の岸和田城跡

上:近世(きんせい)岸和田(きしわだ)城跡(じょうあと (岸和田の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)

 

 

 なお、とても複雑な松浦光(まつらひかる)と九条稙通の情報は、こちらのサイトに集約されています志末与志様のブログ https://monsterspace.hateblo.jp/entry/matsurahikaru

 ともあれ、二人の祖父である九条稙通は、いつのまにか「反・三好三人衆方」に(てん)じていたわけで、近年の研究によれば、むしろそのような方針(ほうしん)転換(てんかん)をおしすすめたのが、稙通(たねみち)自身(じしん)であったとみられています。

 稙通は、かつて足利義晴によって奪われた「東九条荘」や「和泉・日根野荘」などの旧領からの収入を、娘婿(養女の夫)であった十河一存を後ろ盾にして、間接的に取り戻していたようですが、その一存もすでに亡く、収入も滞って、もはや三好三人衆方と同盟している意味がなくなっていたようです。

 

 そして今回、宮内庁書(くないちょうしょ)陵部(りょうぶ)が公開したのが、この九条稙通に向けて出された、塩川長満という「水面下の反・三好三人衆」からの手紙だった、というわけです。

 

 

 

 

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