*空白の天文四年、稙通が摂津・小浜にいたことを「高代寺日記」が記していた!
しかし、「高代寺日記」には、まさにこの「空白期」に相当する天文四年(1535)三月、九条稙通が摂津・小浜(宝塚市)の小浜御坊こと毫摂寺(ごうしょうじ、浄土真宗)に逗留しており、そこで「塩川種満」や「国満」とも交流した事が記されていたのです。
「小浜」は、本願寺を中心とする「大坂」と同じく、毫摂寺を中心とした囲郭都市でした(これを「真宗寺内町」といいます)。この天文初頭前後に新しく開かれていた可能性があります。
なお、本願寺は、遠隔地への門徒の旅行を援助する組織を構築していたらしいので、おそらく今回の「九条稙通の逃避行」を手助けして「摂津・小浜御坊」の宿所を提供したのも、この本願寺勢力であったのでしょう。
なお、以下は全くの想像ながら、九条稙通は
東九条→伏見→夜船→神崎か大物(だいもつ)に上陸→塚口→小浜
というルートで“人知れず出奔した”のではないでしょうか。(22.3.12追記:遠藤啓輔氏のご教示により、真宗寺内町である大物、塚口を加筆しました)
伏見から大坂へ下る「夜船」と言えば、「三十石舟」などで知られる“近世の過書船”が思い起こされますが、九条稙通はすでに享禄五年(1532)七月二十四日(“天文改元”の五日前)の段階で、家僕「矢野在清」ほかの使者を「従伏見乗“夜船”差下之」(ふしみよりよぶねにのりこれをさしくだす)と、大坂本願寺に派遣しているので(稙通公記)、これは九条家においては“勝手知ったる手段”ではあったと思われます。
また、「高代寺日記」には三月下旬にも塩川国満が再び石清水八幡宮寺に参詣するおり、小浜に滞在していて院(多田院か)に社参していた「矢野、 橘ノ某」と結局「同道」することとなり、「従者五十余人」を引き連れて共に参詣した旨のことが記されています。
当時の塩川家の拠点城郭は、多田院にほど近い新田村~平野村(川西市中部)付近にあったので、おそらくこの二人が塩川家にも挨拶に立ち寄り、それが、石清水「同道」へとつながったのでしょう。
この二人は九条家の家僕「矢野在清」あたりか、「橘以緒」(家礼・けれい?)であったと思われます。
また九条稙通の日記「稙通公記」(享禄二年、及び五年)には、しばしば家僕を寺社に「代官」(代参)させる記述があるので、この二人の参詣もやはり稙通の代参であった可能性が高いと思われます。
上画像を見ると、小浜町が、「毫摂寺の北門」から「中世清荒神」と「中世中山寺」にヴィスタ(見通し)を形成したプランであることが判ります。 (小浜町の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)
出奔前の稙通の日記(「稙通公記」、宮内庁蔵)には、彼が非常に信仰熱心な人間であり、伏見稲荷、弁財天、清荒神(京の堀川高辻にあった)、清水寺(本尊が観音)等を定期的に参詣、勤行していたことが指摘されています(小森正明「稙通公記」解題)。
摂津・小浜の毫摂寺北門は、中世・中山寺(本尊は十一面観音)と中世・清澄寺(清荒神)にヴィスタ(見通し)を持っており、また弁財天は中山寺の守護神でもあり、町内には稲荷社もあった可能性があるのです。
小浜はまた、有馬温泉まで半日で行ける場所でもありました。(九条家はかつては「温泉社」等を知行していました。)
ですので、おそらく九条稙通は、宿所「毫摂寺」の北門から「中山寺」と「清澄寺」を遙拝し、時に参詣もしたり、湯山に通ったりして心を慰めていたのではないか?と想像されます。
摂津・小浜の毫摂寺は16世紀の創立と思われますが、中世・中山寺と、中世清澄寺(清荒神)を結ぶ直線は、条里(川辺北条)に整合しており、こちらは遅くとも平安時代に遡ると思われます。
*細川晴国の下、珍しく本願寺と同盟していた塩川家
なお、塩川家の当主が、今回のように本願寺の勢力下の小浜に出向く、というのは、極めて珍しいことです。
実はこの頃、滅亡した細川高国の弟、「細川晴国」という人物が反乱を起こしており、一旦「高国派」を離れていた塩川父子でしたが、再び「高国派残党」ともいうべきこの晴国と同盟していました(高代寺日記、猪名川町仁部家文書、同田中家文書、多田神社文書)。
そしてこの細川晴国が本願寺と同盟していたのです。当時の本願寺は、抗戦派の家老、下間頼秀・頼盛兄弟が主張する対立路線の下にありました。
要するに、今や塩川家と本願寺、そして九条稙通は、軍事的にも連携関係にあって、足利義晴、細川晴元の政権側と敵対していた、というわけです。
ともあれ、これらの複雑な政治的状況が時制的にも、「整合性をもっている」ことから、この「高代寺日記」の記した九条稙通の摂津・小浜への逗留はおそらく「史実」であろうと思われます。
それにしても、九条稙通の人生における最大の危機である「天文三年末の京都出奔」後の「最初の記録」が、摂津における塩川種満、国満父子との交流であったとは…。
*両家の関係はその後33年間途絶える?
しかし、本願寺はこの後ほどなく細川晴国から離れ、晴国は翌天文五年(1536)には滅亡してしまいます。
塩川国満は、軍事的孤立を経たのち、天文十四年には、九条稙通の宿敵であった、足利義晴・細川晴元と連携し、さらに彼らの凋落と心中するように、三好家の統治下で逼塞するのです。
一方の九条稙通は、足掛け19年の放浪を経たのち、足利義晴らを駆逐した三好家と縁戚関係を結んで、やっと都に返り咲きますが…
というところで、九条稙通と塩川家の間は、おそらく33年間もの間、「没交渉」ではなかったか?と思われるのです。
そして、今回の稙通の塩川訪城を迎えたというわけです。
城で再会したであろう、稙通は六十二歳、国満は六十九歳になっていました。
(4) 塩川家と関係の深かった摂関家は、むしろ「一条家」
なお、「塩川家と摂関家」という視点でみた場合、九条家との関係はこれまでご紹介したように非常に特殊で例外的なものでした。
このほか、「高代寺日記」の記事に限られますが、明応五年(1496)から天文二十二年(1553)にかけての塩川種満(長満の祖父)や国満の時代、正月に上洛して摂関家を含む「公武への年賀挨拶」をすることは、塩川家の恒例行事となっていました。
中でも摂関家の記事としては、とりわけ「一条家」への個別記事が目立ちます。
「コラム」で触れましたように、「高代寺日記」は、塩川長満の本妻を、土佐・一条家の「一条房家の孫」でもある「足利義輝の娘」としています。
この“縁”が影響したのかどうかは不明ですが、少なくとも豊臣期~江戸時代前期、塩川長満と伊丹忠親の妹との間に生まれた娘(池田元助未亡人・慈光院)が、実際に「一条家政所」(一条内基の妻・一条兼遐の養母)であったことは史実です。(この「栄転」は秀吉の命によるものと伝えられているので、「小牧・長久手の戦い」で池田父子を死なせてしまった秀吉による、「養徳院」(恒興母)への贖罪であったのかもしれません。)
このことは、「荒木略記」や「岡山・池田家文書の家譜類」といった編纂史料のみならず、「三貘院記」(近衛信尹の日記)、「(土御門)泰重卿記」、「本源自性院記」(近衛信尋の日記)、「(西洞院)時慶記」といった公家の日記類や、妙心寺慈雲院の「池田家墓所」に、養徳院や池田恒興、「池田紀伊守」(元助?)、池田元信(彼女の息子)らの墓と共残された彼女の寛永十四年(1637)の墓石からも実証されます。
この慈光院は、後水尾天皇の「弟(一条兼遐)の養母」でもあるので、「泰重卿記」には天皇と慈光院が、“私的な会合で2ショット”で登場する場面さえあるのです。
(ちなみに 後水尾天皇は「野勢」(豊能町木代周辺)から「亥の子餅」(のせもち)を献上された記録(後水尾院年中行事)があることから、豊能町ではおなじみの帝です。)
しかしながら、この一条家と塩川家のつながりもまた、たび重なる一条家文書の焼失もあってか、こんにちでは忘却の彼方にあります。(失われた近世一条家文庫について)
ただし備前・池田家は「池田光政」の娘「輝子」が慶安二(1649)年に「一条教輔(伊実)」に嫁いで以来、近世を通じて一条家との縁戚関係を築きますが、そもそもその“触媒”というか、発端であったのが塩川長満の娘(慈光院・池田元助未亡人)の「一条内基」への再嫁でした。
そしてもう一人、やはり塩川長満と伊丹忠親の妹との間に生まれ、織田信忠に嫁いだ娘(いわゆる「寿々・鈴」、荒木略記、続群書類従版・織田系図)の方も、「二条昭実の北政所であった」(摂津國荒木一家之事)とも、「一条内基の北政所であった」(群書類従版荒木略記)とも記されていますが、何れであるかは不明です。いずれであっても凄いことなのですが。
また、彼女が三法師こと「織田秀信」の母親(徳寿院)であったかどうかについては、複数の状況証拠は存在する一方、これと矛盾するような史料もあって、いまだに決定的な証拠には出会っておりません。
(4-5)その後の彼らは…
*奮闘・努力の甲斐もなく
なお、足利義昭の上洛戦は成功したものの、結局九条家の旧領回復は不充分なままでした。
また、年号が「天正」に替わって間もなく、九条稙通がアクロバティックな外交手腕を駆使して盛り立てようとした二人の孫、三好義継も松浦光も、若くして亡くなってしまいます。
三好義継は、この上洛戦の翌々年に勃発したいわゆる「元亀の争乱」の中で、結局松永久秀と共に往年の「三好家」を復興させて、足利義昭や織田信長と敵対することになりました。
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なお、松永久秀が足利義昭から離反したきっかけが、「公方様が“九条殿の息女”を養子として、筒井順慶に祝言させた」(「多聞院日記」元亀二年六月十二日条)ことが要因との指摘があり、この説はNHK大河ドラマでも採用されたようですが、当時における「九条殿の息女」という言い回しでは九条家当主、すなわち「九条稙通の息女」に意味が限定されてしまいます(ロドリゲス日本語小文典 下)。
一方「尋憲記」(六月十九日条)にはおいては、「筒井への祝言は、一条殿に仕える五条と申す者の娘とのこと」と記されているのです。
この「尋憲」(大乗院門跡)は九条稙通の甥であること、稙通には妻も実子も確認されていないこと、五条家は実際、一条家の家礼(けれい)であること、加えて久秀の義昭方離反は、この祝言に先立つ事象であるらしいこと(足利義昭と織田信長)などをふまえると、「久秀の離反」と、少なくとも「九条家の娘云々」の話は、ほぼ無視してよいのではないでしょうか。
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さらに元亀四年(1573)、今度は足利義昭が織田信長から離反してしまい、敗戦して落剝した義昭を義継が若江城に保護したことをとがめられます。
三好義継は、織田信長から討伐軍を若江城に差し向けられて、家臣たちの裏切りに遭い、結局自害してしまいました。。
この三好義継の死に対する稙通の哀しみについては、馬部隆弘氏が「信長上洛前夜の畿内情勢」の「むすびにかえて」において名文を書かれているので、そちらにゆずりたいと思います。(『日本歴史 第736号』)
ただ、妻も実子もなかった九条稙通は、甥である二条晴良の子「兼孝」を養子に迎えており、九条兼孝は天正六年に関白に就任しているので、九条家は45年ぶりに関白に返り咲きました。
一方の松浦光の方は、あくまで織田方として、兄とは距離を保って生きのびますが…
「松浦光が死んだのはいつか」に関してはこちらのサイトに情報が集約されています(志末与志様のブログhttps://monsterspace.hateblo.jp/entry/matsurahikaru-death)
どうやら、松浦光も天正三年から四年にかけて不慮の死?をとげているようです。ただしこちらのサイトで紹介されているように、和泉・松浦家自体は安泰のようで、家臣の寺田生家、松浦安大夫などが執務を代行しています。ちなみにこの両名からもたらされた書状の要約が、天正五年九月十三日の「高代寺日記」に記されています。この情報は、あるいは例の根来寺連判衆、塩川全蔵(運想軒、長満の兄で母が種村種子)からもたらされたような気がします。
*塩川家もまたしかり
荒木村重の謀反に加担しなかったことで、一躍頭角をあらわした塩川長満でしたが、大坂本願寺との和睦が成立した天正八年(1580)八月に有馬の阿弥陀堂に安堵状を発給した(善福寺文書)ことを最後に、表立った行動は一切見られなくなります。病気、もしくは何らかの体調不良があったのかもしれません。
なおこの頃、荒木村重の後継者として摂津・伊丹城に入った池田元助(恒興の子)に長満の娘が嫁いでいます。(この縁がきっかけとなって滅亡後の塩川関係者の末裔は、近世・池田家に仕官することになります。のち一条内基政所)
また、天正九年(1581)以降の織田家による京における「馬揃え」(パレード)、因幡・鳥取城攻め、甲斐・武田攻めには、塩川家家老の塩川勘十郎、及び塩川吉大夫の(橘大夫)いずれか、もしくは両名が代表して参加しています。家老が取り仕切っているあたりは、和泉・松浦家に似ています。
「本能寺の変」ののち、摂津衆として「山崎の戦い」に参戦したのも長満ではなく、「塩川勢を率いていた者は、身分は低いが戦慣れした二~三人」(川角太閤記)とあるので、やはりこの二人であったのでしょう。
なお、明智光秀は塩川長満から見れば、娘婿(織田信忠)の仇でもあります。
またこの勘十郎と吉大夫の二人は、塩川長満の子孫共々、それぞれ近世の因幡・池田家、及び備前・池田家の家臣として明治まで続いています(岡山・池田家文庫、鳥取県立博物館所蔵文書)。
また、摂津・塩川惣領家の滅亡状況や、豊臣時代の能勢郡の領主については、これまで定着していた説とは大きく異なる状況であったとみられるので、以下にまとめてみました。
[コラム 13]
* 天正十四年の「塩川家 VS 能勢家の戦争」なんてなかったへジャンプ
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
[コラム 14]
* 天正十四年、能勢郡の領主は佐々成政だった!! へジャンプ
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
[コラム 15]
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
[コラム 15-2] (22.3.14追記)
*塩川浪人の多くが、豊臣秀次に再仕官した(高代寺日記)!? にジャンプ
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
*「言経卿記」に垣間見るその後の彼ら
塩川長満は天正十四年(1586)十月五日に病死しますが(高代寺日記)、その頃大坂・天満で浪人暮らしをしていた公家「山科言経」の日記(言経卿記)の十月二十一日から、「九条禅閤」(玖)と記された当時八十代の九条稙通が大坂に現れ、大坂天満宮の社僧で秀吉の御伽衆でもあった大村由己(梅庵)を通じて言経と交流しています。
稙通は大坂においても、相変わらずお得意の「源氏物語」の講釈や、大村由己主催の連歌会に参加したりしています。
ただ「関白」の地位は、前年に近衛家の養子を経た「羽柴秀吉」のものとなっており、700年以上もその地位を独占してきた「藤原氏摂関家」のもとを離れるという、「超異常事態」になっていました。
九条稙通はそのあらましを前年度の日記に綴っていますが、その「用紙」には先ごろ亡くなった「塩川長満からの古い手紙二通」の裏側も含まれていました。
さて話を戻しまして、山科言経は、この前年に謎の「勅勘」を被って(なんとなく秀吉が関係してそうですが)京を出奔、縁者でもあった真宗・興正寺を頼って大坂に流れて来ていたのです。九条稙通からすれば、言経に「二十代の自分」を見る想いだったことでしょう。
この大村由己の連歌サロンには、山科言経の義兄弟で同じく勅勘を被って浪人中の冷泉為満や四条隆昌、この六月に秀吉の御伽衆に仕官出来たらしいものの、数年にわたって塩川長満の家臣、多田(兵部)元朝の邸(山下町なお、この「元朝」は、「高代寺日記」のみに登場する塩川家臣「多田元継」の後継者と思われます)に隠棲していたという山名禅高(山名家譜、寛政重修諸家譜)なども参加しており、結構「喰いっぱぐれ」が集まっている面がありました。なお、大村由己以外の彼らは秀吉の死後、真っ先に徳川家康に接近するグループになります。
ちなみに山名禅高は元・因幡守護で鳥取城主であった山名豊国で、彼は宗祇の師匠格であった宗砌流の連歌を相伝する立場でした。塩川家は、天正九年の鳥取城攻めに参戦していたので(信長公記)、それが縁となったのでしょうか。
また、禅高が塩川家臣・多田家の元を去って大坂に出て来ているあたり、この天正十四年における「塩川家の衰微」(高代寺日記)を反映している可能性があります。なお、残念ながらこの連歌会で九条稙通と彼が同席している記事には出会っていません。
九条稙通は天正十五年(1587)八月二十六日には大坂で、稙通の猶子・本願寺顕如、の妻と、山科言経の義理の姉(冷泉為満の姉である興正寺顕尊の妻)祐心尼を交えて、祐心尼と、昨年急死した誠仁親王(陽光院)との娘である安禅寺宮(七宮御方・心月女王、当時八歳)と大乗院殿(足利義昭の子・義尋、当時十六歳)の入室について何か「談合」しています。
これはあるいは、大乗院門跡として入室を二日後にひかえた義尋を将来的に還俗させて安禅寺宮と娶わせる?計画なのか??
実は安禅寺宮はこの前年の十二月、摂関家の一条内基が猶子に欲しいと所望していたのです(言経卿記同月一日及び四日条など)。内基はのちのちも、陽光院(誠仁親王)を慕っていました(時慶卿記)。なお、この内基の妻である政所が、塩川長満の娘(池田元助未亡人の方は確実、のち慈光院)であることはすでに述べました。実現していれば、この長満の娘が宮の「養母」となったことでしょう。
一条家は、九条家とはかつては良好な関係でしたが、内基の代になってからは、明らかに“近衛家派”でした。また、山科言経自身もまた、なぜか一条内基を敬遠しており、ひょっとしたらここに「勅勘」の謎を解くヒントが潜んでいるのかもしれません。
ともかく、九条稙通らは安禅寺宮を一条内基に渡すまい、と躍起になっているようにも見えます。
しかし彼らの“希望の星”であったらしい安禅寺宮は、残念ながら3年後に大坂で亡くなってしまいます…
はからずも今回、塩川長満の娘(一条内基政所)が「敵側?」となってしまいましたが、九条稙通の「アクロバット外交官ぶり」(しかも足利義昭がらみ?)は相変わらず健在のようです。
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浪人中の山科言経は、「家職」であった装束の調整や、親友とも言える大村由己が取り組んでいた「天正記」編纂のアルバイトなどをして食いつないでいますが、なんといっても彼の生活を支えていたのは、彼の薬剤師としての心得でした。「言経卿記」は一面、町医者の日記か?と見まがうほどです。
言経は天正十五年九月十四日、四条隆昌を通じて京の九条稙通から「医書一冊」を借り受けています。
天正十八年六月四日にも、その医書?を返却しているらしい記事があります。
そして、興味深いのは「言経卿記」の天正十七年から十九年にかけて、あの「伊丹忠親」が頻繁に登場していることです。一家総出で、それもあくまで「山科言経の患者」として。
「伊丹悪三」「同イモト(妹)」「伊丹兵庫頭孫小児ツレテ」「伊丹兵庫助ヨリムスメ薬取来」「伊丹ヨリ小娘五才薬取来」「伊丹ヨリ薬取来、ア子(姉)ムスメ十才~同イモト五才」「イモトニ才」「伊丹内(家来)廣嶋福寿所労(病気)」「伊丹内孫大夫ヨリ子息所労ニツキ」「伊丹兵庫助~同妻」「伊丹若御乳母播磨國有之云々所労一書来」などとあり、「伊丹悪蔵」宅に往診に出かけた際は、言経は「サウメン(素麺)」や酒を振舞われています。
ここにはかつての「伊丹城主・伊丹忠親」の面影は感じられません。
伊丹忠親は領主としては天正二年(1574)に荒木村重に滅ぼされています。のちに関ケ原の戦い(1600)で、黒田家家臣として戦死しますが、この頃には秀吉の馬廻りであったようです(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」)。
そして幼い子供達が「お使い」に薬を取りに来るなど、言経とは近所住まいだったことがわかります。
(4-6)おわりに
九条稙通の死後、彼の弟子「松永貞徳」がその思い出話として、
「上洛戦が成功した後、多くの公家・門跡衆が、鬼神のような織田信長に対してこびへつらう中、稙通一人だけは立ったまま信長に面と向かって
『上総殿(信長)が入洛めでたし』
と一言だけ言って帰ったので、信長は
『九条殿は俺に(逆に)感謝の礼を言わせに来たのか…』
とたいそう機嫌が悪かった。たとえ一命を失うとも、公家として恥かしい振る舞いを残すまい、という御心がけだったのだろう。」
と記しています(戴恩記)。
九条稙通のこの結構有名なエピソード、今回の塩川長満の書状を見た後では、作り話ではなく、きわめて“真実”に近いのではなかろうか?といった印象を受けました。
それどころか、むしろ稙通のこの振る舞いの中に、塩川長満が書状で述べていた
「申すまでもないことですが、まず近江にお使者を出されて上洛成功後のご希望を仰せなさっておく事が肝要かと存じます」
という、「強気で主張なされませ」ともとれるアドバイスも、どこか生かされているように感じられました。
(水野智之氏(2015)も、「戴恩記」のこのエピソードに関して、「これまでの九条稙通の政治動向と自己意識を踏まえると、ありえたことのように思う」と書かれています。)
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