解説2

(4-2)手紙の内容は?!

(1)塩川の居城(きょじょう)御成(おなり)した九条稙通

 大変(まえ)()きが長くなりましたが、いよいよ書状の説明に入ってまいります。

 まず第一にあげられるのは、九条稙通が密かに塩川長満の居城(きょじょう)訪問(ほうもん)していたという事です。

 ただしこの情報(じょうほう)そのものは、すでに平成(へいせい)11年(1999)には宮内庁書陵部から報告がなされていました(小森正明「解題」 九条家(くじょうけ)歴世(れきせい)記録(きろく) 四)。

 袋綴じ(ふくろとじ)にされた日記のページの裏側(うらがわ)を、横から覗き込(のぞきこ)むことによって、そういった情報をかろうじて読み取ることが出来ていた、というわけです。

  「()月(四月)八日」付の書状においては、九条家や稙通当人から、きたる来訪の知らせを受けた長満が「身に余る光栄」であることを表明しています。

 

[コラム 2]

*「紙背文書」とは? へジャンプ

  (*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)

 

 [コラム 6]

*塩川家の城は山上にあるので、「(やま)下城(したじょう)」という後世の通称は不適切へジャンプ 

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(2)九条稙通(くじょうたねみち)特別(とくべつ)公演(こうえん)”@獅子山(ししやま)(しろ)

 

  以下、「八月二十七日」付書状の内容に移ります。

 九条稙通という人物は従来から、むしろ「源氏(げんじ)物語(ものがたり)」などの「古典(こてん)文学(ぶんがく)の研究者」として知られていました。

   これには彼の母方の祖父であった「三条西実隆」による影響が大きいと思われます。

   そして今回の訪問においても、やはり塩川長満の城で「源氏物語」と「古今和(こきんわ)歌集(かしゅう)」の講釈(こうしゃく)が行われていました。

 

 また、長満に対して「抄物(しょうもの?)」を(たまわ)るという約束(やくそく)もしたようです。「抄物」というのは古典(こてん)注釈書(ちゅうしゃくしょ)のことで、稙通はこの頃、自身による源氏物語の注釈書(ちゅうしゃくしょ)孟津抄(もうしんしょう)」を執筆中(しっぴつちゅう)でしたので、おそらくその一部がこのあと長満に(おく)られたのでしょう。

 

 もちろん、これらは、今回の訪問を受け入れた塩川長満への感謝(かんしゃ)(しるし)であったとみられます。

城の主郭部

上:城の(しゅ)郭部(かくぶ)(山頂の本丸)を北側からのぞむ。おそらく高位(こうい)の稙通は、このあたりの「上座(かみざ)」に、この向きで”着座(ちゃくざ)”したのではないでしょうか。 (獅子山城と山下町の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)

 

[コラム 1]

* 本当は当時出家していた九条稙通へジャンプ

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(3)“アクロバット外交官(がいこうかん)”九条稙通

 しかし九条稙通の訪問の(しゅ)目的(もくてき)は、あくまで「外交(がいこう)」でした。

 おそらく塩川長満を通じて「きたる足利(あしかが)(よし)(あき)上洛戦(じょうらくせん)に協力したい」と申し出たのでしょう。

 すでに述べたように、稙通の二人の孫、三好(みよし)(よし)(つぐ)と松浦(まつら)(まご)八郎(はちろう)(ひかる)(まつ)永久(ながひさ)(ひで)と同盟しており、また松永久秀はすでに足利(あしかが)(よし)(あき)連携(れんけい)していました。

 (なお、松永久秀自身は、少なくとも足利(あしかが)(よし)(てる)殺害(さつがい)現場(げんば)に居なかったことが、近年明らかにされています。くわえて久秀は、一応義昭(当時、興福寺(こうふくじ)一乗院(いちじょういん)門跡(もんぜき)覚慶(かくけい))の(いのち)(すく)ったという前歴(ぜんれき)がありました。)

 

 しかしながら「三好義継」の立場はどうでしょう?。

 

 義継は、義昭の兄「足利義輝」を殺害した現場(げんば)にも()た“(ちょう)本人(ほんにん)”でもあったわけです。また兄弟の母である(近衛)「慶寿院」もまたこの時に自害しています。

   義昭にすれば、「母と兄の仇」そのものです。

  ですから今回、足利義昭に協力をしたくても、うかつには近づけない立場だったはずです。

 ただし、足利義昭は、かつて九条稙通を京都から追放して19年間も放浪させた宿敵「足利義晴の息子」でもありました。“(うら)み”はいわば“おたがい様”でもあったわけです。

 

    また、「足利義昭」(義秋)と「足利義栄」が将軍の地位を競う中、何故か同じ近衛家の当主である「近衛前久」が義栄を支援し、一方、反・近衛家であるはずの九条稙通の甥「二条晴良」が、義昭を支援、越前・一乗谷に出向いて義昭の元服に立ち会っているという“千載一遇の不思議なねじれ状態”が既に発生していました。

 加えて、足利義昭方としても、「三好家の当主」という有力者が同盟(どうめい)してくれること自体は、歓迎(かんげい)すべきことであったはずです。

(実際、上洛成功後に義昭は、(みずか)らの妹を義継に(めあ)わせるほど厚遇(こうぐう)しているのです。)

 

 

 一見)アクロバットのように見えながら、「両者(りょうしゃ)利害(りがい)一致(いっち)する1点」は見えていました。

 九条稙通の「外交官(がいこうかん)」としての(うで)の見せ所であったと思われます。

 

[コラム 7]

*塩川長満の本妻(ほんさい)は、「一条房家の孫」で「足利義輝の娘」だった!?へジャンプ

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[コラム 8]

*塩川家にとってはヒーローだった!?摂津晴門へジャンプ

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(4)“フィクサー伊丹(いたみ)(ただ)(ちか)と「幻の足利(あしかが)(よし)(あき)上洛計画」

 今回、九条稙通と塩川長満の間を仲介したらしい人物は、二通の書状に「伊兵(いひょう?)」と記されている「伊丹(いたみ)兵庫頭(ひょうごのかみ)」こと、伊丹城主の「伊丹(いたみ)(ただ)(ちか)」(1552-1600)でした。忠親もまた水面下では「反・三好三人衆」だったのです。

 

 以下)想像(そうぞう)ですが、九条稙通は危険(きけん)をさけて、岸和田の(みなと)から船でひそかに尼崎付近に上陸し、伊丹城を経由して川辺郡(かわべぐん)笹部(ささべ)(むら)の獅子山城(いわゆる“山下城”)に来たのではないでしょうか。

地蔵浜沖埋立地

 画像:対岸の海岸線が見えておらず、「地球の丸さ」を感じさせる写真です。

 (岸和田の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)

 

 なお、「伊丹家」は、忠親の父「伊丹(いたみ)(ちか)(おき)」の時代以前から、縁戚(えんせき)関係(かんけい)を含めて「塩川家」とはなにかと関係(かんけい)良好(りょうこう)で、同盟(どうめい)を結ぶことが普通(ふつう)でした。

 

 しかも、すでに塩川長満と伊丹親興(*ロ)、あるいは同じ摂津・中嶋(なかじま)城(大阪市十三(じゅうそう)付近)の細川(ほそかわ)(ふじ)(かた)は、これより二年前の(えい)(ろく)九年(1566)、松永久秀方と連携(れんけい)して、三好三人衆に対して挙兵(きょへい)し、三好三人衆方であった池田(いけだ)(かつ)(まさ)の池田城を攻めているのです(永禄九年記)。

 

  またこうした動きは近年の研究から、「足利(あしかが)(よし)(あき)(義昭)」を擁立(ようりつ)した織田信長による、“(まぼろし)の第一次上洛(じょうらく)計画(けいかく)”と連動(れんどう)していたものとみられています。

  しかしその後、戦況(せんきょう)が変わってこの上洛計画は失敗に終わり、伊丹、塩川共々、三好方と和睦(わぼく)し、両者は現在(げんざい)表向(おもてむ)きは「三好三人衆方」として(いき)をひそめていたのでした。

 

  なお伊丹忠親は、この6年後に、摂津・池田家の家臣から台頭した荒木村(あらきむら)(しげ)(ほろ)ぼされてしまいます。

  村重は、伊丹の城に入り、町の名前も「有岡(ありおか)」に変えてしまいます。

  長年の同志を失った長満は、この荒木(あらき)村重(むらしげ)体制(たいせい)の中ではやはり「野党(やとう)」であったことでしょう。

  さらに4年後の天正六年(1578)、荒木村重が織田信長に謀反(むほん)を起こしたとき、摂津(せっつ)国衆(くにしゅう)唯一(ゆいいつ)、塩川長満だけが織田方に()みとどまりました。その伏線(ふくせん)の一つが、この伊丹家との関係であったとも思われます。

 

 

 [コラム 10]

*「荒木村重の乱」の功績と、織田信忠、池田元助との婚姻関係へジャンプ

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(*ロ 2022.3.14追記 : 初稿においては「忠親」と記してしまいましたが、志末与志様よりご指摘があり、「永禄九年記」の「伊丹」は「細川両家記」に「伊丹大和守」とあることから、この時点における伊丹家当主は、まだ先代の「親興」でありました。謹んで訂正申し上げます。

 さらに志末与志様がブログで情報整理されている「伊丹市史第1巻」P633~における考証(黒田俊雄氏による)によれば、今回の長満書状は、「伊丹忠親の初見史料」になるとのことでした。

 どうやら、「永禄九年九月中頃」(細川両家記)と「永禄十一年四月七日」(今回の長満書状)の間に、伊丹家の当主が 「大和守(親興)」 → 「伊兵」(のち兵庫頭忠親)へと代替わりされていた模様です。ただし、天文二十二年末に「親興」は「貞親」と改名しており(西宮神社文書)、永禄十一年における「伊丹忠親」は、まだ「伊丹兵庫助 親」と名乗っており(永禄十一年十二月十一日大山崎離宮八幡文書)、未だ「偏諱」も確定してなかったであろうとのことです。

 ともあれ、「塩川国満・長満」父子以上に、「伊丹親興・忠親」父子もまた、いまだ第一線の研究者の間においてさえ、「同一人物化」をも含めた混乱があるらしく、これを機に情報整理が進展されることが望まれます。)

 

 

 

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