(4-3)上洛戦の開始直前、塩川長満が近江に家臣を派遣していたことを記していた「高代寺日記」
(1) これまでの誤った歴史解釈
今回の書状から、塩川長満が上洛戦以前から、ひそかに足利義昭方であったことが明らかになったわけですが、これまで地元で公刊されていた公式の歴史の本においては、
「塩川国満は上洛戦後に足利義昭方に降伏した」
ということにされていました。
これは江戸時代後期に書かれた「多田雪霜談」という創作性の高い軍記物語の内容が、ほぼ全面的に採用されていた結果です。
しかしながら、まず「国満」が「長満」の間違いであるうえ、そもそも「塩川が降伏した」、つまり「三好三人衆方として一旦抵抗した」ことなどは、他の記録には明記されていないのです。
一方、伊丹忠親の方は「細川両家記」という史料に、義昭が越前敦賀に逗留していた時からの支援者で、上洛戦が始まるやいなや、摂津周辺の三好三人衆方の拠点をいっせいに放火してまわったことが明記されていました。したがって、忠親の立場は、(父「親興」と混同されてはいましたが、一応は)古くから歴史学で認められていたのです。
ですので、おそらく塩川長満もほぼこれと同じ立場であって、能勢郡あたりで忠親と同様の軍事行動を起こしていたものと推定されます。そして今回の書状公開を機に、この部分の歴史叙述を書き改めるべきでしょう。
[コラム 12]
(*[コラム](0~15)は、最後にならべてあるので、あとから読んでもOKです!)
(2) 「高代寺日記」に記されていた、長満の近江への使者派遣
*「100 対 0」の比率で不採用
さて冒頭でも触れましたように、ここからは、これまでの公式の歴史の本のことごとくが採用を見送った「高代寺日記 下巻」の説明に力点を移してまいります。
まずは、今回の長満書状との関連記事をピックアップして比較検討し、その部分の信憑性を浮き彫りにしてみましょう。
「高代寺日記 下巻」は、江戸時代前期に塩川氏の家臣によって編纂された、一種の「塩川家の年表」のような史料で、戦国時代の初期から、江戸時代前期までの160年間の出来事がまとめられています。
ですから、「多田雪霜談」のような威勢のいい軍記物語とは全く異なる性格の記録です。
上:「高代寺日記」の原本が伝わったと思われる豊能町吉川の高代寺周辺(画像はクリックで拡大。別ウィンドウで開きます。)
ところどころ、明らかに間違った記事が混在していて敬遠されてきたようですが、総合的にみれば「少なくとも7割方は信頼できるか」といった印象があります。この点、「多田雪霜談」とは全く比較になりません。
(しかも昭和から平成20年代に至るまで、「高代寺日記」を入手するためには、東京の内閣文庫まで出向いて数万円のコピー代を負担する必要があったので、ごく一部の研究者をのぞいては、その記述内容すら未知のものでした。)
ともあれ、どうして当時、地元自治体史(兵庫県側)において、「多田雪霜談」と「高代寺日記」の記述が、「100 対 0」の割合で採用、不採用の明暗をわけたのか、不思議というほかありません。
(大阪府側の自治体史においても、さすがに「多田雪霜談」は採用されなかったものの、かといって「高代寺日記」もまたスルーされてしまいました。)
例えば、基礎的な情報として、「高代寺日記」には、塩川家が、足利義昭上洛戦の二年前ほど前に、「国満」から「長満」に家督を移していることがちゃんと記されていました。
これは今となっては、ごく当たり前に思われていますが、昭和~平成半ばにかけての川西市や猪名川町では、専門の歴史学者を含めて、ほとんどの人々が「塩川長満」という名前すら知らなかった(!)のです。
(大阪府側である能勢町、豊能町においては「能勢物語」を通じて「敵役」として知られていましたが)
また「塩川伯耆守 = 国満」一人に固定されてしまったのは、「大日本史料」の影響も大きかったでしょう。
今でも時おり「長満」のことを、同じ「伯耆守」を称した「国満」と混同された記事に出会いますが、それはこの名残りです。
なお、「塩川長満」の名前を世に広めたのは、谷口克広氏の「織田信長家臣人名辞典」(1995・2010)とインターネットの普及が大きかったと思います。
*塩川家と縁戚関係にあった、六角家家臣「種村大蔵」を取次として?!
それでは「高代寺日記」においては、今回の長満書状が書かれた時期である、永禄十一年(1568)の項目に何が記されていたのでしょうか?
おどろく事に、上洛戦の直前にあたる「八月」と「九月」の項目には、塩川家の家臣「塩川孫大夫(宗頼)」が「近江」に二度までも派遣された、とあるのです(!)。
(この「塩川孫大夫」は、塩川長満の義理の兄(異母姉の夫)にあたり、猪名川町の「多田院御家人の家」として知られる「槻並・田中家」の人物です。孫大夫が近江に派遣された伝承も不正確ながら同家の家系図に伝わっているようです。また孫大夫はこの翌年に阿波で戦死しており、その子(辰千代、頼一)は長満の猶子として引き取られています(高代寺日記・田中家文書)。)
なお、この近江への塩川家臣派遣の記事は、とても簡略な文章あるため、くわしい事情がわかりにくいのですが、「九月」の記事の方には「大蔵の諌により帰った」という、謎めいた記述でしめくくられています。
この近江の「大蔵」という人物は、「高代寺日記」の天文二年、三年、四年(1533-5)、及び「源国満」の名目(プロフィール)の項などを総合すると、塩川国満や塩川孫大夫、塩川仲朝ら家臣たちとも縁戚関係などを結んでいた、近江・六角家の家臣「種村家」の「種村大蔵」という人物と思われます。例えば「戦國遺文佐々木六角氏編」所収の永禄五年の史料864に、「種村大蔵丞 貞誠(和)」の署名があって、明らかに当時実在した人物です。
「高代寺日記」天文四年の条には、塩川国満の妻の一人が、「近江大老種村伊予前司高成ノ娘 種子」とあり、彼女が国満の最初の嫡男(出奔して根来衆となった例の全蔵・運想軒)を出産したとも記されているのです。その姉(国満の長女於虎)もまた、種子の娘で、於虎の夫が塩川孫大夫、という関係でした。
要するに、近江・六角家臣・種村家は、塩川孫大夫からみて、義理の母(種子)の実家という関係でした。
(なお北九州大学の教授でいらした藤原正義氏の「宗祇序説」(1984)のP110-111に「高代寺日記」から起こした便利な「塩川略系図」が掲載されています。)
そして今回公表された塩川長満の「八月二十七日」の書状には、近江・佐和山城に着いたという織田信長の情報が記されていたわけです。加えてこの信長の佐和山滞在は、近江南部の大名、六角承禎への協力要請だったことが「信長公記」の記述から明らかになっています。
つまり、「高代寺日記」の謎めいた家臣派遣の記事は、まさにこうした状況にピッタリと符合する内容なのです(これを「整合性がある」といいます)。
まとめてみますと、塩川長満が「近江・佐和山の織田信長」の情報を知っていたのは、まず長満がひそかに足利義昭方であったからであり、ついで家臣・塩川孫大夫を近江・六角家の元(あるいは佐和山にも?)に派遣していたからであると考えられます。そしておそらく、孫大夫の縁戚にあたる「種村大蔵丞貞誠」を六角承禎への取次役としたのでしょう。
そして状況的には、塩川長満としても、従来の縁戚関係を通じて、六角承禎に対し、足利義昭上洛への協力を要請していたことが推察されるわけです。
しかしながら、(「信長公記」に記されたように)、結局交渉は不調に終わり、「孫大夫は種村大蔵に諫められて帰還した」ということになります。
以上、ごく一例をご紹介しましたが、ここから「高代寺日記」という史料の可能性や、良質な部類である記事における信憑性の片鱗などが伝われば幸いです。
(4-4)「高代寺日記」は、これより33~38年前における、九条稙通と塩川家との交流をも記していた
(1) やはり「高代寺日記」のみが記していた“異色な”九条家との接点
さて今回、九条稙通という摂関家の大物公卿と、塩川長満という摂津の一 国衆が、接点を持っていたという”意外さ”に驚かれた方も多いかと思います。
しかしながら、九条稙通と塩川家との接点は、これ以外にも唯一、やはり「高代寺日記 下巻」だけが記録を残していたのです。
ただし、その記事は、この永禄十一年より「33~38年前」というはるか以前のものでした。年代でいえば、享禄三年(1530)と天文四年(1535)という期間だけに集中しており、同記の記事の中でも「やや異色」な印象を受けます。
というのは、おおよそ塩川家は、足利義晴・義輝側の陣営、すなわち「九条家」の宿敵であった「近衛家」側に属することが多く、やはり九条家との接触は「かなり例外的」であったとみられるのです。ですから、今回の長満書状が示した両家の接触は、この時以来、実に「33年ぶりの出来事」であったと思われます。
(2)享禄三年(1530)塩川国満が淀川経由で上洛し、伏見宮邦高入道御所と九条邸を訪問、献上をおこなう
では具体的にそれらの記事を見ていきましょう。
最初の記事は塩川長満がまだ生まれる前、享禄三年(1530)二月のもので、塩川国満(三十一歳)が家臣四十人と共に上洛して九条家を訪問している、というものです。
国満の旅の経路は、おそらく淀川を遡上して→「伏見主に拝謁・献上」→「九条主に拝謁・献上」→「石清水八幡宮寺に参詣、住持・田中家に宿泊」→おそらく淀川を下って帰還する、といったようなものでした。
*伏見宮入道を表敬訪問
国満が最初に訪問、謁見した「伏見主(ふしみのきみ?)」とは、当時伏見の御所に隠居していた晩年の「伏見宮邦高親王」(吏部王・当時“恵空入道”、七十四歳)と思われます。
こういった記事などにしても、これまで
「塩川国満と伏見宮家との接点など聞いたことがない。これだから「高代寺日記」は信用出来ない」
などと、敬遠されてきたのではないでしょうか。
では、伏見宮邦高親王と塩川家との接点なんてあるのでしょうか。探ってみましょう…
まず、邦高親王は非常に和歌・連歌に造詣深い人物でした。
朝廷による准勅撰連歌集であった「新撰菟玖波集」(明応四年・1495)には十九句も採用され、また親王自身が同集の内裏用の写本を作成しているほど熱心でした。
一方、国満の祖父にあたる故・塩川秀満もまた、この「新撰菟玖波集」に「源秀満」として三句も採用されていたのです。それどころか、秀満自身も同集の編纂にあたった連歌界の巨人「宗祇」を、自身の居城(おそらく新田の城)に招いており(「下草」初版本ほか)、子の種満(国満の父)共々、連歌への入れ込みが相当なものでした。
よって、邦高親王と塩川秀満、もしくは種満とは、連歌を通じた何らかの文のやりとりくらいはあったとして何ら不自然ではなく、今回の国満による伏見宮入道訪問は、おそらく塩川家の跡継ぎとしての表敬訪問であったと推察されます。
*洛中の九条家を表敬訪問
次に国満は伏見から北上して上洛。「九条主」(くじょうのきみ?)へ拝謁、献上をしています。
この時九条家はすでに、稙通が家督を継いでいました。当時はまだ二十四歳の若者であり、内大臣 兼 左大将という官職にありました。
なお、この五か月後の七月に先代の九条尚経が 六十三才で亡くなっているので、国満はあるいは晩年の尚経にも拝謁したかもしれません。
(「高代寺日記」における恒例の「年賀の公武への挨拶廻り記事」を除いては)具体的に名前が記された、これが九条稙通と塩川国満との縁の「初見記事」であり、永禄十一年に獅子山城で両者が再会したであろう時からは、38年前という過去の出来事でした。
*この時期の国満上洛は、政治的にも理にかなっている。
さて、この享禄三年(1530)の塩川国満上洛の記事は、当時の複雑な政治情勢的にも非常に整合しており、おそらく史実であったと思われます。
塩川国満は、かつて仕えた摂津守護でもあった「細川高国」から「国」の字を拝領しており(高代寺日記)、一般的には「高国派」と見られがちなのですが、「高代寺日記」はこの二年前の大永五年(1528)に国満が高国と「不和」(仲たがい)となった事が記されています。
そしてこの時点における京都の行政は、元「細川高国の近習」でありながら、今や高国に反乱して彼を追い落した「柳本賢治」という人物が取り仕切っていたのです。
ですから、もし塩川国満が「高国派」のままであれば、家臣四十人を引き連れた「大所帯」で上洛すること自体がまず不可能であったでしょう。
くわえて近年の研究においては、この時の柳本賢治は、当時「堺」にあった足利義維の政権(いわゆる堺公方)を、近江・朽木谷にあった足利義晴の政権(朽木公方)の下に合一すべく和睦を進めており、「平和」をのぞむムードがありました。
実際にはこの直前まで、この柳本賢治と、「堺公方をより上位に据えようとする三好元長(長慶の父)」が小規模な戦争をくりかえしていたのですが、このとき元長は、阿波に帰っていました。
つまり、この「享禄三年二月の塩川国満の上洛」は、この時点における彼の立場と、享禄三年春の「束の間の平和な情勢」がもたらした出来事でした。
なお、この三か月後にはこの「和睦」は堺側が破棄してしまい、柳本賢治もその翌月には播磨で殺害されてしまいます。なお、細川高国は翌年の享禄四年(1531)六月に摂津・尼崎で滅亡しています。
(3)京を“出奔”直後の九条稙通と塩川種満・国満父子との交流
*九条稙通、ついに関白に就任するも、わずか一年半で突然出奔
つづいて「高代寺日記」における、もうひとつの「九条稙通と塩川家」の記事に移りましょう。
塩川国満の九条家訪問から3年後の天文二年(1533)、九条稙通は宿敵、近衛稙家から半ば強引に奪い取るかたちで「関白」に就任します。
しかしそれは彼の「束の間の栄光」でした。
翌天文三年(1534)十一月には、なぜか稙通自身が突然関白を辞職。
公式記録(公卿補任)には
「経済的困難から拝賀が出来ず、辞職して京を出奔、摂津へ下ったらしい」
と謎めいた理由が記されています。
最近の研究においては、実は九条稙通が地位を捨てて京を出奔した本当の理由は、近江に居た足利義晴が、稙通の宿敵、近衛家の娘を妻に迎えて上洛し、稙通を脅したからだ、とみられています。
要するにこれは、稙通に関白の地位を奪われた「近衛家による復讐」でもありました。
そして九条稙通はこの時、「東九条荘」や「和泉・日根野荘」など、自領のほぼ全てを失いました(東寺百合文書、九条家文書)。以後、足掛け19年の放浪生活に入ったわけです。
「栄光」から、彼の人生で「最悪の事態」に一気に転落したのでした。
*二年後、大坂本願寺に逗留していた稙通
そしてこの二年後の天文五年(1536)五月、稙通は大坂本願寺に保護されていました(天文日記)。
実は本願寺の十世宗主「証如」は、稙通の父「九条尚経」と「猶子」の契約を結んでいました。つまり証如は稙通の「義理の弟」でもあったわけで、その関係から本願寺が稙通を保護していたのでした。
ただし、この前年である「天文三年末~五年五月」における稙通の足取りは、「不明」とされていました。