コラム11~15

[コラム 11]

*長満の「長」の字は、「信長」からもらったのではなかった!?

 塩川長満は織田信長との関係から、「おそらくその“長の字”は「信長」からの一字拝領(はいりょう)偏諱(へんき))であろう」と類推されて来ました。

しかし近年、長満が「伯耆(ほうき)(のかみ)」を名乗る以前の「(げん)() 長満」と署名している書状(写しか)が猪名川町で確認されました(槻並・田中家文書)。

 「高代寺日記」によれば塩川長満が

☆十五歳で「源太」を名乗るのが天文二十一年(1552)九月八日

☆十八歳で元服をするのが弘治元年(1555)正月。ただしこの時「長満」と名乗った否かは不明

☆「伯耆守」を名乗るのが永禄八年(1565)八月

 であり、少なくとも「永禄八年八月以前」の「源太」時代から「長満」を名乗っていたことが見込まれます。

 この時点で摂津・塩川家の嫡子が、「尾張・小牧時代以前の織田信長」から一字を拝領することは考えにくいと思われます。

 また、今回の長満書状においても、信長のことを単に「信長」と記しています(なお織田信長は永禄九年六月頃「尾張守」を称しており、この永禄十一年八月には「弾正忠」に改称しているようです)。

 この「呼び捨て」については、それが戦国時代特有の敬意表現であったらしいこと(足利将軍辞典)、書状が実質「九条稙通」という“貴人(きじん)”に出されたことに加え、今回の義昭上洛にしても、近年の研究においては、織田信長は義昭の「供奉者(ぐぶしゃ)の一人」と解釈されており、塩川長満とは形式上はあくまで「同格の立場」である、という理由もあるでしょう。

 加えて「尾張守」や「弾正忠」を避けたのも、「私称」なので、公家の九条家に対しては、はばかられたのでしょうか。(長満の「伯耆守」については、「論考編」で述べたいと思います)

 

 なお、塩川家と関係の深い「吉川家」(能勢郡吉川村の領主)は「長」の字を通字としているようですし、あるいは、やはり「長」を通字としていた「三好家への媚態(びたい)」(抵抗勢力であったのにもかかわらず、塩川家は安堵されたわけですから)もあったかもしれません。

いずれにしても、信長からの「偏諱(へんき)」(一字拝領)説は、今後次第に消えつつあるのかもしれません。

 

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[コラム 12]

*織田信長 VS 塩川長満の戦争があった?

 実は塩川家の子孫が仕官(しかん)した備前(びぜん)・池田家に伝わる()()類には「織田信長と塩川家の間で戦闘があり、丹羽(にわ)長秀(ながひで)菅屋(すがのや)長頼(ながより)調略(ちょうりゃく)によって和睦(わぼく)した」という謎の記述があるのです。しかし今回の長満書状から、その時期は永禄十一年(1568)ではなかったことが明白となり、また近年、荒木(あらき)村重(むらしげ)謀反(むほん)を起こした天正六年(1578)でも、長満が当初から織田方であったことが判り((たい)(がん)歴史(れきし)美術館(びじゅつかん)所蔵(しょぞう)文書(もんじょ))、この戦闘が事実であるとすれば、消去法(しょうきょほう)から最も可能性が高いのは、元亀(げんき)四年(1573)二月に足利義昭が織田信長から離反した時ではないかとみられます。「(じん)憲記(けんき)」という興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)門跡(もんぜき)(九条稙通の甥)の日記に一応、この時に伊丹忠親や塩川長満らが、足利義昭方についたことが記されているからです。ただし長満はほどなく義昭から離反したものとみられます。(なお、「細川家文書」の二月二十三日付「織田信長黒印状」においては、「伊丹が義昭方になった」ことには触れられていますが、塩川は登場していません。

 

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[コラム 13]

* 天正十四年の「塩川家 VS 能勢家の戦争」なんてなかった

 「多田(ただ)(せっそ)霜談(うだん)」という18世紀末~19世紀初頭に作られた創作(そうさく)軍記(ぐんき)物語(ものがたり)は、地元自治体の公式の歴史の本が非常に大々的に採用したため、同書(どうしょ)に記された多くの出来事が、現在においても、あたかも「史実」であるかのように信じられています。例えば、

 「豊臣時代の天正十四年(1586)、塩川家と能勢家が戦争に及び、それが豊臣秀吉の怒りを買って討伐軍(とうばつぐん)を差し向けられ、塩川国満が切腹(せっぷく)して滅んだ」

 という塩川家滅亡(めつぼう)()(てい)も、「多田雪霜談」による「創作話(そうさくばなし)」です。

 まず、塩川家と能勢家が古来ずっと仲が悪かったわけでもありません。細川(ほそかわ)高国(たかくに)(はる)(くに)が活躍した頃までは(1530年代以前)、両家はむしろ同盟関係にあったといえそうです。

 しかし天文(てんぶん)十年代(1540年代)、細川(うじ)(つな)を支持した能勢郡西部を、細川晴元(はるもと)方に転じた塩川国満が焼き討ちしたことから、両者の確執(かくしつ)が生じたように思われます(波多野家(はたのけ)文書(もんじょ)など)。

 能勢家はそのまま細川氏綱と連携(れんけい)した「親・三好」にスムーズに移行し、「反・三好」となった塩川家は弱体化(じゃくたいか)しました。

 塩川長満が後に織田信長を支持した素地(そじ)は、この頃に生じたといえるでしょう。

 このような能勢家と塩川家の反目(はんもく)は、断続的(だんぞくてき)に「荒木(あらき)村重(むらしげ)謀反(むほん)」まで続きます。

 (大坂夏の陣で再燃しますが、「多田雪霜談」の記した「塩川残党は徳川方だった」という話もまたウソで、実際は大坂方でした(大坂の陣豊臣方人名辞典の「塩川信濃貞行」参照))

 ようするに「多田(ただ)(せっそ)霜談(うだん)」の元ネタとなった戦争は、「(てん)(しょう)十四年」より6年~40年も過去の出来事でした。

 

 ともあれ、史実においては、天正八年(1580)に和睦した能勢家や野間家(のまけ)の当主たちを、織田信長の命を受けた塩川長満が「居城で誘殺」したことにより、能勢家はいったん「滅亡(めつぼう)」しているのです。

 つまり現実の「能勢家」は、天正八年(1580)年から慶長五年(1600)までの20年間もの間、領主として存在していないので、そもそも塩川家と戦争など出来るはずがないのです。

 

 なお、川西市や猪名川町においては「塩川長満」の名前が同じ「伯耆(ほうき)(のかみ)」である「国満」と混同されて、平成半ば(2000年代)に至るまでほとんど知られていませんでしたが、一方の能勢郡側においては「塩川長満」の名前は「能勢家の当主たちを、城に(さそ)いこんで殺した卑怯者(ひきょうもの)」としてずっと有名でした。

 これは長満が「能勢(のせ)物語(ものがたり)」という軍記(ぐんき)物語(ものがたり)に登場していたためです。

「能勢物語」(長澤本(ながさわほん))も「脚色性(きゃくしょくせい)」はそれなりに著しいのですが、「多田雪霜談」の「創作性(そうさくせい)」に比べると、史実の大骨は基本的に押さえられており、はるかに良質であると言えます。

 

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[コラム 14]

* 天正十四年、能勢郡の領主は佐々(さっさ)(なり)(まさ)だった!!

 なお、史実(しじつ)における天正十四年(1586)の「能勢郡の領主」は、意外にも佐々(さっさ)(なり)(まさ)でした(!)。

 正確に言うと、「能勢郡」は基本的(きほんてき)羽柴(はしば)(ひで)(よし)の領地であり、当時、秀吉の御伽(おとぎ)(しゅう)顧問(こもん)のようなもの)として大坂に在住していた佐々成政に対して「家族の生活費」として能勢郡の年貢(ねんぐ)徴収権(ちょうしゅうけん)が与えられていたわけです。おそらく成政が越中で降伏した天正十三年(1583)秋に、元々能勢郡に入部(にゅうぶ)するはずであった脇坂安(わきさかやす)(はる)に代わって、急遽(きゅうきょ)成政への(あて)(がい)に変更され、少なくとも成政が()()一国(熊本県)を(あて)がわれる天正十五年五月までの間は能勢領有が継続(けいぞく)しています。

 

 成政の能勢(のせ)領有(りょうゆう)は、のちに羽柴秀吉が発給(はっきゅう)した成政に対する多数の告発(こくはつ)文書(ぶんしょ)や、能勢郡の役人記録(森本弌氏所蔵文書)、「川角(かわすみ)太閤記(たいこうき)」に書かれています。また、平成31年(2019)1月にも「成政自身が能勢郡のことを記した書状」の写しが発見されて、これはYAHOOニュース(北日本新聞)にも載りました。

 能勢郡は佐々成政ののちも、結城(ゆうき)ジョルジ()(へい)()小西(こにし)(ゆき)(なが)家老、フロイス「日本史」)や、水野(みずの)(ただ)(しげ)下総(しもうさ)結城(ゆうき)水野家(みずのけ)文書(もんじょ)など)、島津(しまづ)(よし)(ひさ)(島津家文書)、伝承ながら後に肥後に入部する加藤(かとう)(きよ)(まさ)(当時羽柴領の官吏か)にも宛がわれたらしく、「九州関係者」の用地として意識されていたようです。

 なお肥後の統治(とうち)に失敗した佐々成政は、天正十六年(うるう)五月に摂津・尼崎で切腹となりました。

 偶然なのかどうか、実はこれは摂津塩川家の滅亡(コラム15)とほとんど同時期です。

 

 ともあれ、佐々成政という武将が、新たに豊能町の歴史にも加わったわけです。

 

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[コラム 15]

*では塩川家は何故、如何にして滅亡させられたのか?

 

 以下「高代寺日記」を主とし、「イエズス会側の関係史料」が示す摂津の領有状況や、大坂城築城に動員させられた摂河泉領主たちの消耗ぶり、兵庫県史所収の福尾猛市朗氏所蔵文書、領内の多田院や清澄寺(清荒神)の文書、多田銀銅山の関連資料や、塩川家の衰微・落城の伝承等をも加味すると、塩川家は織田信長亡き後の「羽柴秀吉」によって、まず天正十一年(1583)から十四年(1586)にかけて段階的に領地を縮小させられている事が推測されます。

 

☆天正十一年(1584)と推定される「五月二十五日」付の「三好孫七朗宛 羽柴秀吉書状」(福尾猛市朗氏所蔵文書)によれば、三好孫七郎信吉(のちの羽柴秀次)が「旧 池田恒興・元助、照政領」に入部していることが判ります。なお、この史料に登場する「塩儀」(“塩なんとか”)なる人物は、孫七郎「御雇」となった「塩川運想軒」(高代寺日記、例の根来連判衆)の可能性があります。

 

☆「天正十三(1585)年九月十五日」付の「田中久兵衛 吉政」による多田院への寄進状(多田神社文書、高代寺日記)、及び

☆同じく天正十三年と推定される「八月十一日」付と「八月二十三日」付の「田中久兵衛尉 吉政」による「清 龍蔵院」、すなわち清荒神(宝塚市)への寄進状(清澄寺文書)等は、いずれも近江へ去り際の田中吉政(羽柴秀次家老)によるものです。

これらの史料は、天正十一年五月から十三年九月にかけて、三好信吉(羽柴秀次)によって塩川領の一部が接収されていたことを示しています。またこの傍証として、

 

☆太田牛一の「大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)」の「秀次妻妾の最期」において、文禄四年(1595)に処刑される羽柴秀次の妻妾に「中納言 津の国、 小浜殿息女、三十四」が記されている点が注目されます。「小浜殿」とは、天文四年に九条稙通が逗留していた例の毫摂寺(ごうしょうじ、宝塚市)の九世「善助」であり、中納言には九歳の姫君も居たようです(藤田恒春「豊臣秀次の研究」)。彼女の年齢から、これは秀次が「三好孫七郎」として川辺郡中西部一帯(旧塩川領と思われる)を領有していた天正十一~十三年に“縁”が出来たのでしょう。藤田氏によれば、秀次の妾の出自には「所領との関係が窺われる」ようです。加えて

☆「天正十四(1586)年 六月三日」付で、羽柴秀吉から絵師狩野山楽(木村平三)に「紺青」(こんじょう、顔料)の採掘権が与えられています(「摂州多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」、山内荘司文書、猪名川町史所収)。また

 ☆「1583年の日本年報」(1584年1月2日付)には、摂津国で「三万クルザード以上を取り上げられたもう一人の異教徒」なる領主について記されており、「三万クルザード」はおよそ「一万二千~一万五千石」に相当すると考えられます。この「領主」は消去法から「塩川長満」に特定されます。この記述はまた、上に記した塩川領の一部没収を示す史料の内容や、推定石高に矛盾していません。

 

☆天正十四年の「高代寺日記」に、「五月五日 愛蔵大坂へ初テ出仕 家僕六十余人同従フ」という記事があり、この「愛蔵」は長満の嫡子で十八歳。「出仕」とは、この頃完成した大坂城で小姓となる「人質」に他なりません。

問題はこの「家僕六十余人同従フ」で、彼らが愛蔵の「世話係」の意味なのか、あるいは「塩川家臣団」そのものの「大坂移転」、すなわち「内山下(侍町)」の消滅を意味するかです。

もし、後者の解釈だとすれば、これはのちの「多田雪霜談」における「落城譚」の元ネタとなった事象である可能性があります(元禄五年「寺社吟味帳」、「穴織宮拾要記」が記す落城や衰微の伝承)。

 

☆天正十年頃?から天正十四年まで、塩川家臣「多田元朝」(「高代寺日記」に登場する山下在住の塩川家臣「多田元継」の後継者と思われます)邸宅に隠棲していたという「山名禅高」(豊国、山名家譜、寛政重修家譜)は、「天正十四年正月五日」には大坂の大村由己の連歌会に参加しており、半年後の「六月一日」には、大坂の「山名伊予守入道禅高亭ニテ」“仕官祝い”らしき法楽連歌会を開催しています(以上「言経卿記」)。これらは上の「高代寺日記」記事における塩川家の衰弱と、まさに裏腹の状況を表していると推測されます。

 

 また、「高代寺日記」は、わざとその詳細をボカしながら、塩川長満の晩年、長満の猶子・辰千代と、その後に生まれた実子・愛蔵との家督争いが、天正十六年初夏の塩川家改易につながったことを匂わせています。(この辰千代は、永禄十一年夏に近江に派遣された例の「塩川(田中)孫大夫」の遺児を長満が引き取った人物で、(高代寺日記、槻並・田中家文書)、この辰千代(頼一)の嫡子(基満)の家臣が、「高代寺日記」の編者となったとみられます。ちなみにこの「基満」は、元和初頭に京の一条家で元服しており(高代寺日記)、「基」の字は、故・一条内基からの拝領と思われます。当時一条家の家政を取り仕切っていた「政所」は、長満の娘「慈光院」でした(泰重卿記)。)

 

 加えてこの「塩川家改易の時期」は、京で最初の聚楽行幸が行われている真最中にあたります。

 

 これを裏付けるものとしては唯一、「当代記(とうだいき)」のみに、聚楽行幸に「たゝのしおかう(多田の塩川)」の馬上参加が記されており、このほか「留守中に城を取られてしまっていた」という山下町における伝承(藤巴力男氏談)や、「備前・岡山」における塩川家の子孫の家譜とキリシタン改めの記録から推測される、「在所を去ったのが天正十六年」という年次があります。

 要するに、塩川家の当主を争う二人が「(じゅ)(らく)行幸(ぎょうこう)」に参加している最中に、突然領有を剝奪(はくだつ)された、というシナリオです。

 

 おそらくその際に「城攻めの合戦」などは無かったものの、例えば城を接収する際の「武装解除・引き渡し」の一般的光景が、あたかも合戦のように見えることから(乃至政彦「戦う大名行列」)、江戸時代前期にはそれが「塩川の落城伝承」となり、さらにそれを18世紀末に創作脚色したのが「多田雪霜談」ではなかったか?と推測しています。(一方この「城の接収時期」を天正十四年に想定する解釈もあります)

 

 では、塩川家はなぜ滅亡させられたのか?

 

 まずその最大の要因は「ここが摂津国だから」でした。秀吉が新たに得た「大坂城」が「摂津国」にあったことが運の尽きでした。秀吉は池田(いけだ)(つね)(おき)元助(もとすけ)父子や高山右近、中川秀政など国内の全ての領主を「美濃(みの)」や「播磨(はりま)」に移封(いほう)しました。秀吉は大坂を中心とした畿内を一族で独占したかったようです(中村博司「豊臣秀吉と茨木城」)。

 加えて、塩川惣領家が、「史実」であるか否かはともかく、少なくとも16世紀には「満」を通字として「多田満仲の末裔」を称していたこと、周りがそれを認めていたこと自体は事実のようです。(「荒木略記」、「高代寺日記」)。

 獅子山城跡から散見される元亀~天正初頭の「桔梗紋瓦」は、他所では天正期後半まで類例がなく、これなどはまさに「源頼光」(多田源氏の二代目)の子孫をアピールするもの(見聞諸家紋)であったでしょう。

 

 つまり塩川家にとっては、平安時代中期の多田満仲、源頼光以来の「多田の地」から離れることなど、考えられなかったのではないでしょうか。

 実際、永禄~天正期の塩川長満(天正十四年に病死)の”骨っぽい行動パターン”や、縮小されながらも天正十六年まで当地を離れなかったらしい傍証からすれば、あるいは「なんとか移封を拒否」して秀吉の機嫌を損ねてしまったのかもしれません。

 

 「面倒な奴…」というわけです。

 

 「高代寺日記」という史料は、感情を隠すように、総じて淡々とした記述スタイルでありながらも、秀吉のことはしばしば「木下」と呼び捨てにしており、やはり秀吉に対しては、怒りの感情を隠せなかったもようです。

 

 

 

[コラム 15-2] (22.3.14追記)

*塩川浪人の多くが、豊臣秀次に再仕官した(高代寺日記)!?

 羽柴秀吉によって弱体化→改易させられた摂津・塩川家ですが、あらかじめ天正十一年から「三好孫七郎」(羽柴秀次)の「御雇」となっていた、例の“根来・大ヶ塚連判衆”、「塩川運想軒」(全蔵)と秀次家臣であった「田中吉政」を通じて、塩川浪人の多くは、近江・八幡山の「羽柴秀次」に再仕官することが出来たようです(高代寺日記)。塩川家の「滅亡」は、幾分は“ソフトランディング”で済んだのでしょう。

 

 ともあれ、かつて獅子山城の「内山下」(のち下財屋敷)に在住であった彼らは、「八幡山下町」(天正当時の呼称)へと移ったわけです。

 

 ただし「豊臣秀次」の名前は、江戸時代初期には、すでに“殺生関白”としてタブーであったのか(実際は秀吉によるプロパガンダであったと思われますが)、慶長以降に、岡山や鳥取の池田家に「再々々…仕官」した元・塩川関係者の家譜類には、この「豊臣秀次への仕官履歴」は一切記載されていないのです。

 

 なお、秀次家臣に「塩川」名字の者が居たことは、山鹿素行の「武家事紀」巻第十八の「関白秀次」家臣に「塩川喜左衛門」なる人物が登場しており、また伝説的な「小野お通」の暴力的な夫として、やはり秀次家臣家臣であった「塩川志摩」なる人物が居たようですが、彼らの出自に関しては不明です。

 

 一方、遥かに信憑性が高い情報としては、「羽柴秀次切腹の三か月後」である文禄四年十月八日付で、元・塩川家臣「平尾勘介」に田中吉政重臣の「宮川佐渡守」から計百石の知行が宛がわれています(『川辺郡猪名川町における多田院御家人に関する調査研究 ―その3 平尾家史料調査―』2017)。

 この史料は、「高代寺日記」文禄四年七月条における、秀次自害直後の「塩族多浪人タリ」という記事にまさに符合しており、浪人となった秀次の塩川系旧臣を、家老であった田中吉政(三河・岡崎城主)が吸収していたことをあらわしています。

 

 同じく信憑性の高い情報としては、天正十(1582)年に多田院と新田村の境界訴訟を裁いた塩川家家臣「塩川十兵衛尉」(「多田院・新田村際目注記」・多田神社文書)と、文禄二(1594)年十月廿日に、近江で羽柴家の蔵米の運送、管理にあたっていた羽柴秀次家臣「塩川十兵衛尉」(近江・若宮神社文書)とが“同一人物”である可能性が挙げられます。

 

 この「塩川十兵衛尉」は、「駒井日記」の文禄三(1593)年正月、及び四月条にも、秀次領の尾張において、やはり「田中吉政の配下」として「中島郡堤築之奉行」として登場しています。なお、羽柴秀次は天正十八年から尾張・清洲城主になっており、「塩川十兵衛尉」はその領内、木曽川の治水工事の一端を担っていたようです。

 

 さらに、かつて「二条昭実」(九条兼孝の弟)と関白を争って結局、羽柴秀吉に「関白」の地位を奪われて精神を病んでしまい、開き直って文禄元年(1593)年、「武士として」朝鮮への渡海を志し、肥前名護屋に向けて出立しようとする元・左大臣、「近衛信尹(のぶただ)」の日記、「三藐院記」の冒頭である「十二月十四日」条にも「塩川十兵衛」が登場しています。

 

 この日、京を去ろうとする信尹を、かつて織田信長に取り立てられた「鷹司信房」(二条昭実の弟)が四条通りまで見送り、さらに羽柴秀次の家臣で「見送り役」でもあったと思われる「生田右京亮」(元・近江浅井家臣)と「塩川十兵衛」、及び、「一条内基」(!)の三名が、京から桂川を渡って、乙訓郡「向日町の南端」まで、心から別れを惜しんで見送っているのです。

 

 なお、すでに何度もお伝えしている一条内基の妻(塩川長満の娘、少なくとも池田元助未亡人の方は確実)は、近衛信尹とも隣人として交流がありました。(同記の慶長四(1599)年閏三月十日条、慶長六年(1601)五月一日条、慶長七(1602)年四月二十三日条に登場する「池田勝吉」は、池田元助との遺児「元信」)

 

 近衛信尹は、近衛前久(龍山)の嫡男で、永禄十一年(1568)秋には「九条稙通と結んで上洛した将軍・足利義昭」によって京を出奔させられ(毎度お約束のパターン)、一時期などはなんと、「三好義継」の城下であった「河内・若江」に逗留していたことさえありました(三藐院記)。

 

 彼は、足利義昭が追放された後に朝廷に復帰、織田信長の加冠で元服しており、織田弾正忠家の通字である「信」の一字を受けて「信基」→「信輔」と名乗っており、信長を終生“父”とも慕った人物でした。最後の実名「信尹」(のぶただ)は明らかに「織田信忠」を意識していると思われます。

 

 ともあれ、ここで彼を向日町のはずれまで名残惜しく見送ったメンバーの中に、「一条内基」(妻が摂津・塩川家)と「塩川十兵衛」(秀次家臣、元摂津・塩川家臣?)の名前が並んでいることに注目したいと思います。

 この記事は、非常に多くのことを考えさせられる情報を含んでいますが、ここでは「高代寺日記」が記した「塩川浪人の羽柴秀次への再仕官」の傍証である点を押さえておきたいと思います。

 

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解説・コラム・文責 中島康隆 豊能町文化財保護委員

 

 

 

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