[コラム 5]
*戦国時代に「多田院御家人」と呼ぶのは時代錯誤?
書物などでは、しばしば戦国時代以降の塩川家のことを「多田院御家人筆頭」と、いかにも誇らしげに紹介されたりします。
これは塩川家の初見史料が、弘安元年(1278)の「多田院」の金堂上棟(あげむね)式における祝儀の一覧史料の筆頭に「塩河左衛門尉」と記されているものに由来します(多田神社文書)。
「多田院」は近代以降の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって「多田神社」となりましたが、もともと源満仲、頼光の時代に“天台寺院”として建立されたものが一旦荒廃し、「承久の乱」以降に領主となった「北条得宗家」によって、鎌倉時代の末に“神仏習合の真言寺院”として復興されたものでした。上記の「金堂上棟」はまさにその復興時の記事なのです。
多田院が「源氏」一辺倒ではなく「平氏」を称したらしい北条得宗家によって命脈を保ったことは記憶されて然るべきでしょう。
なお、多田源氏や塩川家は「八幡神」も信仰したようですが、その主たる「氏神」は、意外にも京郊外の「平野神社」でした。その名残は川西市の「平野」の地名(800年間鎮座していた「平野明神」に由来しますが、こちらも江戸時代中期に式内社「多太神社に比定」されてしまいました)や、笹部の「平野神社」に見受けられます。
「平野」は「塩分を含む鉱泉」(平野湯)が出る「塩川」発祥の地であり、余談ながらこの鉱泉が後に「三ツ矢サイダー」を生み出しました。
ともあれ、この「多田院御家人筆頭」とは
「“武門源氏”の祖、源満仲の墓所である”多田院を護持するお役目“を任された御家人たちのリーダー格」といったところでしょうか。
しかしながら、そもそも「多田満仲」の「満」の字を用い、多田源氏の末裔を称していた塩川惣領家にとっては、「御家人」とは元々「鎌倉殿」に安堵された「御・家人」であるという、ある意味“立場を格下げされた呼称”でありました。
源氏である「足利家」もまた、多田院を崇敬して将軍家の分骨所とし、「多田院御家人」の称号も踏襲されますが、戦国時代に至ってはこの呼称は使われなくなります。
それどころか、結局塩川家は多田院(現在の多田神社)の領地「多田荘」を乗っ取って、自らが領主となってしまいます。ですので、塩川家の説明としては
☆戦国時代の初期までは、室町幕府体制の下で、摂津守護・細川家に従う「国人」
☆戦国時代半ば以降は、川辺郡北部の独立領主である「国衆」
といった分類で呼ぶことが、とりあえずより適切ではないかと思われますが、このような「定義」は必ずしも当時の呼称とは同じではなく、研究者によってはすべて「国人」で通す例もあります。
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[コラム 6]
*塩川家の城は「山上」にあるので、「山下城」という後世の通称は不適切
塩川家の居城は、川西市山下町の背後にそびえる「古城山」の上にありました。この城跡は塩川家が豊臣時代に滅ぼされて廃城となって以降、江戸時代前期の寛永期には「山下城」(やましたのしろ)と通称されています。城山の下の「山下町」は、この地域唯一の「都市」として栄えていたからです。
この呼称がおそらく近世後期か、現代にかけて「山下城」(やましたじょう)という「固有名詞」に転じて定着しました。なお、戦国時代の城郭というものは現役当時、「固有名詞」で呼ばれる習慣はほとんどなかったものとみられます。(「多田城」(ただのしろ)「塩川之城」(しおかわのしろ)「塩川城郭」(しおかわのじょうかく)「多田塩香城」(ただのしおかわのしろ)「多田塩川要害」(ただのしおかわのようがい)など)
ただし「山下」とは、文字通り山の下の“城下町”を意味する言葉なので、「山城」の名称としては本末転倒で不適切です。また「山下町」が開設された時期は、九条稙通の訪問から6~9年後のことで、まだ当時は「山下」の地名さえありませんでした。ですからこのページでは、後に紹介する「高代寺日記」という年代記の記述に従って「獅子山城」の名称を提唱したいと思います。
なお城内における塩川家の屋敷地は、山頂の主郭(本丸、現在城址碑がある場所)にほぼ間違いないとみられ、九条稙通が「御成」(地位の高い人が訪ねてくること)した場所もここであったのでしょう。
上:獅子山城は織豊期に「織田風」に一部改装されています。(獅子山城と山下町の拡大画像はクリック。別ウィンドウで開きます。)
稀に見られる瓦片は、元亀~天正初頭(1570-75)頃の技法を呈し、「桔梗紋」の中心飾りを持つ軒平瓦も見出されています。
塩川家の本紋は「獅子牡丹」ですが、「桔梗紋」の起源は、永正七年(1510)年の奥付を持つ「見聞諸家紋」に「源頼光」の伝承が記載されています。源頼光は多田源氏の二代目にあたり、獅子山城の南1.5kmに頼光の墓所とされる「頼光寺」(川西市東畦野)があります。塩川家は少なくとも16世紀には、多田源氏の末裔を称していた(荒木略記、高代寺日記)ので、頼光の子孫をアピールする「桔梗紋」を使用することは何ら不思議ではなく、また当瓦は目下「日本最古の家紋瓦」に相当するものです。
なお、桔梗紋の起源を「美濃・土岐家」とみるのは、すでに「見聞諸家紋」の著者が疑問を呈しています。土岐家もまた、源頼光の一系統に過ぎないからです。
上:「山城」と「山下町」の配置関係。城と町の構造が明らかに有機的に関連していて、どう見ても「城下町起源」としか考えられません。一部に否定する意見もあるようですが、これまでその根拠が明示されたことはありません。おそらく廃城後の近世以降、侍町(内山下)跡が、多田銀銅山製錬の工業団地「下財屋敷」として再利用されたとみられます(灰色表現が、鉱滓の捨て場です)。一方の「山下町」の方は商業地区で、塩川時代の「町人地」がそのまま引き継がれたのでしょう
上:城下町特有の「天守?へのヴィスタ」(見通し)も見られます。これは同時期の城下町である有岡、茨木、三田や近江・長浜にもみとめられます。ただし「山下町」が開設されたのは「九条稙通の訪問」から6~9年後の天正二~五年のことで、永禄期には「山下」の地名は無く「笹部村」でした。画像はクリックで拡大。)
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