手紙画像・解読文

 

 

 

 

手紙画像

 

元関白(もとかんぱく)九条禅閤稙通(くじょうぜんこうたねみち)塩川(しおかわ)長満(ながみつ)居城(きょじょう)にあらわる!

(1)はじめに

   令和3年(2021)7月1日、宮内庁(くないちょう)(しょ)陵部(りょうぶ)は所蔵していた戦国時代の公家・九条稙通(くじょうたねみち)(1507-1594)の日記の一種である「稙通(たねみち)(こう)別記(べっき)」の紙背(しはい)(紙の裏側(うらがわ)に書かれていた文書(もんじょ))を新たに公開しました。

   当該文書は、本町と関連の深い塩川氏の動向、また、それに関連して本町の中世末期の状況がわかる史料として、本町にとって重要な史料となります。そのため、翻刻文・読み下し文解説を掲載しました。

   九条稙通(くじょうたねみち)は、かつて関白(かんぱく)藤原(ふじわら)()長者(ちょうじゃ)を務めたこともある、藤原(ふじわら)()摂関家(せっかんけ)()(ぎょう)です。

  今回公開された紙背十七枚のうちの二枚は、摂津(せっつ)川辺郡(かわべぐん)北部(ほくぶ)現在(げんざい)の兵庫県川西市(かわにしし)北部(ほくぶ)~猪名川町)を支配(しはい)していた国衆(くにしゅう)塩川(しおかわ)長満(ながみつ)(1538?-1586?)から九条家(くじょうけ)に出された、(えい)(ろく)十一年(1568)のものとみられる書状(しょじょう)二通でした。

  書状が書かれたのは、三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)政権(せいけん)が支配していた戦国(せんごく)時代(じだい)最末期(さいまっき)であり、この年の秋に足利(あしかが)(よし)(あき)(ほう)じた織田(おだ)信長(のぶなが)上洛(じょうらく)をはたす、まさに直前(ちょくぜん)という時期(じき)でした。

   そして、二通の書状に(しる)された内容から、当時ひそかに“足利(あしかが)(よし)(あき)(がた)”とつながっていた摂津(せっつ)伊丹(いたみ)城主(じょうしゅ)伊丹忠親いたみただちか(*イ)の仲介(ちゅうかい)により、やはり同様(どうよう)立場(たちば)であった塩川(しおかわ)長満(ながみつ)居城(きょじょう)(川西市山下町(やましたちょう)の「古城山(こじょうやま)」)へ、九条稙通(くじょうたねみち)自身による来訪(らいほう)があり、きたる上洛戦(じょうらくせん)に向けての会見(かいけん)実現(じつげん)していたことが明らかとなりました。

 

   この九条稙(くじょうたね)(みち)という人物は、近年(きんねん)研究(けんきゅう)によれば、三好(みよし)(よし)(つぐ)(三好家当主)・松浦孫(まつらまご)八郎(はちろう)(和泉国主)兄弟の「祖父(そふ)」であり、かつ彼らの後見人(こうけんにん)として、この兄弟を三好(みよし)三人(さんにん)(しゅう)陣営(じんえい)から離反(りはん)させ、つまり足利(あしかが)(よし)昭方(あきかた)(てん)じさせたという、その行動的(こうどうてき)な「外交(がいこう)手腕(しゅわん)」が評価(ひょうか)されています。(馬部隆弘2009など)

今回の長満の書状は、そのことを裏付(うらづ)け、補強したのみならず、稙通による「その次の工程(ステップ)」を示したものとなりそうです。

 

  さて、二通の書状はそれぞれ「四月八日(づけ)」と「八月二十七日(づけ)」のもので、このあいだのいずれかに、稙通(たねみち)による塩川長満の居城への訪問(ほうもん)があったことがわかります。

 

  また、「八月二十七日」の方は、織田信長が九月七日に岐阜(ぎふ)城を出立(しゅったつ)して上洛戦(じょうらくせん)を開始する、わずか「十日前」にあたります。

  こちらの書状はやや長いもので、塩川(しおかわ)長満(ながみつ)による先日の稙通(たねみち)来訪(らいほう)に対する感謝(かんしゃ)言葉(ことば)にはじまり、長満の居城で稙通自身による「源氏(げんじ)物語(ものがたり)」や「古今集(こきんしゅう)」の講釈(こうしゃく)(かい)(さい)されたこと、織田信長がすでに近江(おうみ)佐和(さわ)(やま)城(現在の滋賀県(しがけん)彦根市(ひこねし))まで一旦(いったん)出向(でむ)いて上洛の交渉(こうしょう)を始めているらしいこと、きたる上洛戦(じょうらくせん)への楽観的(らっかんてき)見通(みとお)しや、戦後(せんご)における稙通の拠点(きょてん)和泉(いずみ)(のくに)」(大阪府(おおさかふ)西南部(せいなんぶ))への(あつか)いや、あるいは恩賞(おんしょう)希望地(きぼうち)?とも推測(すいそく)される、(なぞ)めいた「若江表(わかえおもて)」(東大阪市(ひがしおおさかし))についての質問、上洛戦(じょうらくせん)に向けた伊丹忠親や長満自身による周辺(しゅうへん)工作(こうさく)情勢(じょうせい)報告(ほうこく)抱負(ほうふ)などが箇条書(かじょうが)きされており、華やか(はなやか)さに加え(くわえ)て、大事(だいじ)目前(もくぜん)にひかえた、とても緊張感(きんちょうかん)あふれる内容となっています。

  ともあれ、二通の書状は、この「歴史的(れきしてき)大事件(だいじけん)」の裏側(うらがわ)一端(いったん)を明らかにしたもの、といえるでしょう。

 

(*イ : 後述しますが、今回の書状はまた「伊丹忠親」の初見史料でもある模様です)

 

 

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  なお、今回の書状の公開から明らかとなった

☆塩川長満が、すでに上洛戦(じょうらくせん)の直前に近江(おうみ)連絡(れんらく)を取り合っていたこと

  および、書状と関連(かんれん)して

九条稙通(くじょうたねみち)と、摂津(せっつ)塩川家(しおかわけ)の間に交流(こうりゅう)過去(かこ)があったこと

  は、これまで「高代寺(こうだいじ)日記(にっき) 下巻(げかん)」という史料(しりょう)写本(しゃほん)国立(こくりつ)公文書館蔵(こうぶんしょかんぞう))にのみに記載(きさい)があって、すでに一部の研究者には知られていた事柄(ことがら)でした。

 

  江戸時代前期(ぜんき)編纂(へんさん)された「高代寺日記(下巻)」は、おそらく失われた原本(げんぽん)が本町にある(ひち)寶山(ほうざん)高代寺(こうだいじ)真言宗(しんごんしゅう))に伝わっていたものとみられます。

 その内容は、「日記」というよりは一種の「年表(ねんぴょう)」のようなもので、記事の品質(ひんしつ)はその「一項目(いちこうもく)」「一項目」(ごと)によって違うという「玉石(ぎょくせき)混交(こんこう)」の(てい)をなしています。

 しかしながら、この半世紀(はんせいき)のあいだ、この史料(しりょう)はその「総合的(そうごうてき)品質(ひんしつ)」にくらべて、あまりにも不当(ふとう)無視(むし)されてきました。その状況は令和4年(2022)の現在においてもさほど変わっていません。

 

 しかし、今回の新たな書状の公開によって、少なくとも「高代寺日記」に記されていた上の二つの事柄(ことがら)については、信憑性(しんぴょうせい)裏付け(うらづけ)が取れた、と言えるでしょう。

 よって、当ページの後半(こうはん)においては、今回の書状の内容と、「高代寺日記」の記事とを比較(ひかく)検討(けんとう)し、高代寺日記」の信頼性(しんらいせい)回復(かいふく)するべく、提言(ていげん)をしてみたいと思います。

 

 

 

 

 

                                      令和4年(2022)2月 豊能町教育委員会

 

 

 

(2)令和3年(2021)7月1日、新たに公開された、二通の書状の画像

(一)塩川長満書状(折紙(おりがみ)

卯月(うつき)八日付 石井兵部(いしいひょうぶ)大輔(だゆう)星野(ほしの)備前(びぜん)入道宛(にゅうどうあて) 披露状(ひろうじょう)

宮内庁書陵部図書寮蔵「稙通公別記」(九・5183)紙背 四枚目(十七枚中)

塩川長満書状(折紙)

八月書状画像

(二)塩川長満書状(折紙の下半分を上下反転しています)

八月廿七日付 石井兵部(いしいひょうぶ)大輔宛(だゆうあて) 披露状(ひろうじょう)

宮内庁書陵部図書寮蔵「稙通公別記」(九・五一八三)紙背六枚目(十七枚中)

塩川長満書状(折紙の下半分を上下反転)

 

 

(3)翻刻文・読み下し文

 

翻刻文・読み下し文(1)

翻刻文・読み下し文(2)

 

翻刻文・読み下し文(3)

 

 

 

 

 

 

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