瀧本訓導の碑(野間口 入口)
1938年7月5日の大水害の折り、野間口では山地が崩壊して、山津波が押し寄せ、岩石・土砂・立木が流出し、道路・家屋を押し流した。東能勢村だけでも9人の死亡者を出す、同村はじまって以来の大惨事となった。
その9人の中に前年度箕面尋常高等小学校より東能勢尋常高等小学校へ主席訓導として赴任されていた瀧本撰治(当時33歳)が含まれていた。
瀧本訓導は児童を家庭に送り、その帰路、担任児童の一家の危難を見、救助にむかい殉職された。「大阪毎日新聞」の1938年7月7日には『あゝ殉職・瀧本先生山津波に敢然・教え子離さず』の見出しで同訓導の殉職を報じている。同年7月18日に学校葬が行われ、そして翌1939年、斎藤弔花によって瀧本の伝記『輝く銀杯』(瀧本訓導顕彰会刊)が刊行された。 また、副読本「にんげん」には、この大水害の模様が「差別の雨」として教材化された。
「瀧本訓導の碑」は、1939年1月「むら」の入口に建てられ、以来供花が絶えることはない。