郷土の偉人 戦国大名 高山右近

高山右近ってどんな人

 高山右近は、豊能町出身の戦国大名でキリシタン大名としても有名です。室町時代から桃山時代、そして、江戸時代のはじめの頃までを生き抜いた人で、戦国時代の武将であり、お城づくりの名人でもありました。また、茶人としても知られており、「利休七哲」(千利休の弟子の中でも優れた茶人:右近のほかに、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然、芝山宗綱、瀬田正忠、牧村利貞)の一人と言われています。

 高山右近は1552年、本町の高山で生まれました。現在、右近が生まれたとされる場所には、「高山右近生誕之碑」が建てられています。 

高山右近生誕の碑

 

父・高山飛騨守とともに、そして・・

 右近は、父・高山飛騨守、母マリア(キリスト教での名)の男3人、女3人(男3人、女2人とも言われています)兄弟の長男として生まれ、高山には5歳の時まで過ごしていました。20歳くらいまでは「彦五郎」と呼ばれていました。父・高山飛騨守は、高山の地において、先祖代々のその土地の豪族として力を持っていましたが、松永久秀の家来として大和の国の沢城主(現在の奈良県宇陀市)になったため、右近も沢に移りました。

 右近は12歳の時、沢城に招かれてやってきたキリスト教の修道士ロレンソという人から話を聞き、キリスト教を信仰するようになりました。キリスト教での右近の名は、ユストまたはジュスト(正義の人の意味)と呼ばれています。

 また、右近が17歳になった頃には、高山親子は高槻城下に移ります。右近が21歳の時に父の後を継いで、高槻4万石の城主となり、豊能町の余野の城主・黒田氏の娘、キリスト教での名前「ユスタまたはジュスタ」と結婚します。そして、織田信長の家来となり、右近が治める領内に20余りの教会を建て、布教に力を尽くしました。

 1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後は、右近は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の家来となり、天王山の合戦、賤ケ岳の合戦で手柄を立てます。豊能町の余野には、先祖が賤ケ岳の合戦で戦ったという記録が残っており、右近に従って戦ったものと思われます。

 右近33歳の頃、右近の領地が高槻から明石へ変更になります。明石で6万石を与えられ、、明石の海の近くに船上城(ふなげじょう)を築くとともに、教会を建設して布教に努めます。

高山右近・志野像

豊能町高山地区にある「右近の郷」の「高山右近・志野像」

 

伴天連追放令後の苦難の時代・・・

 1587年、豊臣秀吉により、「伴天連(キリスト教の宣教師)追放令」が出されます。秀吉は、右近に、キリスト教の信仰をやめるよう強く迫りますが、断固として信仰をあきらめなかったため、右近は領地を失い、追放されました。右近は小豆島から熊本へ、そして1588年からは金沢の前田利家のもとで、その後の25年間を過ごすことになりました。前田利家と右近は、お茶の大家・千利休の弟子であり親友でありました。右近は、利家の家来として小田原の合戦に参戦し、築城や茶の湯に才能を発揮しました。1614年、徳川家康が「伴天連追放令」を発布し、伴天連の国外追放とともにキリシタンの全面的禁圧(力をもって禁止する)が命じられました。

 右近もその対象となり、金沢から長崎まで旅を続け、1614年、右近一族は、長崎で国外に追放になりました。

 

 

終焉の地、フィリピン・マニラへ

 国外追放された右近一族は、フィリピンのマニラに到着しました。マニラ市民の熱烈な歓迎を受けましたが、金沢からの苦難の道中と過酷な船旅で疲れ果て、また不慣れな南国の気候風土や食べ物により健康状態が悪くなりました。そして、とうとう熱病にかかり、1615年2月、静かに息を引き取りました。63歳でした。

 セントトマス大学右近像

石板

 フィリピン・マニラ市のセントトマス大学構内にある右近像。像の両側にあるマーカー(石板)のうち、一番左のものは、高山右近夫妻顕彰会より贈られたもので、「セントトマス大学様へ 高山右近の列福と友好を記念して 右近生誕地ー豊能町より (このマーカーは、豊能町高山地区産のみかげ石でつくられたもの)」とあります。

 

 

(豊能町教育委員会生涯学習課編の「高山右近って、どんな人?」より引用)

 

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